今から半世紀前、公共交通機関での座席譲りは弱者に対する配慮という面よりも、儒教の「長幼有序」倫理に基づいた、年長者を敬う行為という面に重きが置かれていた。立っている高齢者を見ても知らんぷりをしている学生に、傍らの男性が「学生! ちょっと席を譲って差し上げろ」と説教することも珍しくなかった。しかしその時代、多くの若者もまた「年の順に座る」という秩序に反感を抱いていた。「勉強でへとへとになった中学生とたくましい中年男性、どちらが席に座るべきか」といった形の問題提起が、既に半世紀前の紙面に見られる。
長い月日がたち、世間は大層変わったが、公共交通機関の座席をめぐる神経戦は相変わらずだ。高齢者と若者の間にある座席の優先権をめぐる見解の差は、ますます広がっているように感じる。かつて、学生たちがバスで席に座っていて高齢者が乗ってきたとき、寝たふりなどしていたのは、「譲らないのは誤り」という考えを持っていたからだ。近頃は、地下鉄の席に座り、目と鼻の先に立っている白髪の高齢者をじろじろ眺めている学生もいる。一部の青年は「私も金を払って乗ったのだから、座る権利がある」「譲る譲らないは私の選択」と主張する。長幼有序倫理の退潮とともに、「弱者保護」の意識までつられて失踪しつつあるようで、ほろ苦い気分だ。キャンペーンごときでは解決できないところまで来てしまった。先月の当局の発表によると、ソウル市の交通人口のうち高齢者・障害者・妊産婦など交通弱者は227万人で、交通人口の4分の1を占めるという。現実に合わせて交通弱者の座席を拡充するなどシステムを改善するほかに、妙案はないように思われる。