昨年春、韓江氏がマン・ブッカー賞を受賞した直後、われわれは誰もが興奮しながら今後を期待した。英国では多くの読者がこの賞をきっかけに韓江氏の小説を読み、韓国文学に関心を持つようになるだろう。英紙ガーディアンは韓江氏の別の作品『少年が来る』をスミス氏が翻訳すると同時にその出版情報を伝えた。英語に訳された韓国小説がそこまで報じられるのは珍しいことだ。韓国でも縮小一方だった文学市場に再び活気が戻った。教保文庫の調査によると、昨年夏の小説販売は前年の同じ時期に比べて2倍に跳ね上がった。もしノーベル文学賞を受賞すれば、国内外にそれ以上の効果がもたらされるのは間違いない。
村上春樹氏やジョアン・ローリング氏の新作が出るたびに、書店の前で徹夜で並ぶ読者が韓国にいないことを嘆く声もある。このような現状でノーベル文学賞を求めるなどおこがましいというのだ。この指摘が正しいのであれば、韓国がノーベル文学賞を受賞することは永遠にないだろう。しかしスウェーデンのノーベル賞選考委員会が受賞条件として各国の文学熱を掲げているとは聞いたことがない。受賞の可能性を高める直接的な手段は、優れた作品と審査委員を引きつける翻訳だ。マン・ブッカー賞国際部門の審査委員長を務めたボイド・ダンカン氏は『ベジタリアン』について「驚くべき翻訳技法によってこの奇妙に輝く作品が英語となり、その内容は完璧に伝えられた」と述べ、受賞の鍵が翻訳にあることを強調した。われわれも優れた作家と作品を数多く持っている。それらを価値ある宝にするため、政府は優れた翻訳が行われるよう投資に力を入れなければならない。ノーベル文学賞は「酸っぱいブドウ」ではないのだ。