陽明学の門外漢なので深い意味を計り知ることはできない。ただ虚無だった。命をささげた日本の陽明学派も「動機の純粋さ」を重視したのだろう。しかし、彼らは動機と同じくらい重要な目指すべき所を持ち、死を通じて成し遂げた。我が国の陽明学派は何のために死んだのだろうか。彼ら以前にもこの国には喜んで命をささげた数多くの実践家がいた。ところが、両国の命の価値はなぜこれほど違うのか。勇気と情熱は同じなのに、我が国はなぜ滅んだのだろうか。識見不足のため一つを知ると十の疑問がわいてくる。
歴史書を読めば読むほど、とにかく外国勢力のせいにする主張に興味をなくした。江華島条約から国権喪失まで我々には30年近い時間があった。歴史にも三振法が適用される。甲申政変・甲午改革・光武改革は貴重なチャンスだった。歴史書を読むほどに興味をなくす主張がもう一つある。朝鮮は国力が枯渇し、すでに滅びた国だったという宿命論だ。我が国を長年見てきた当時の西洋人たちは、一様に優れた才能、熱い教育熱、豊富な資源を高く評価していた。まだ強くはなかったが、強くなることができる国だった。その国で黄ヒョンはなぜ「人間世界の識者役は難しい」という絶命詩を残して死んだのか。
本当に識者役が難しかった時代だったようだ。開花を夢見て政変を主導した当代の天才・金玉均(キム・オッキュン)は殺害された後、四肢を切られ全国でさらされた。改革を主導した朝鮮最後の領議政(議政府の最高官職)・金弘集(キム・ホンジプ)は失脚後、群衆の前に投げ出されて他殺された。外国勢力の暴挙だったとしたら、もっと虚無的でなかっただろう。胸が痛むのは、数多くの人材が改革を試みながら、仕えていた王により最期を迎えたことだった。王は改革により王権を制限された時、改革全体を放り出した。民族の情熱や才能も、天が与えた貴重な機会も絶対王権の前に30年間もがいたあげく、終わりを迎えて消え去った。無能な政治はこのように恐ろしいものだ。