【コラム】100点満点を目指す韓国社会の弊害

 「オール100」、全ての科目で100点を取るという意味だが、学生時代に誰でも一度は目標にしたスローガンだろう。今でこそこの世に100点などというものは存在するわけがないと思うようになったが、それでも全科目100点という精神は、韓国のように何も持っていない国が半世紀という短い期間に立ち上がることができた原動力の一つになったと思う。

 2007年の3月ごろだった。インド最高の名門とされるインド工科大学(IIT)を取材した。真夜中でも30度に迫る蒸し暑さだった。寄宿舎の冷房施設といえば天井にぶら下がっている1台の扇風機が全てだった。ここで一生懸命に勉強して米国のシリコンバレーを「植民地」と化してしまったインドの若者たちは、非常に印象的だった。しかし、彼らと同じくらい印象的だったものがもう一つある。それは「8点」だ。IIT経営学科博士課程の最初の試験(経営数学)の平均点数は100点満点中なんと8点だったのだ。オール100を取ってこそ優等生だと思ってきた筆者には「IITの天才たちのレベルはこの程度なのか」と疑問にすら思った。ところが、そうではなかった。IITの関係者は「学問の世界のスタート地点にようやくたどり着いた学生たちに、今後登るべき山がどのくらい高いのかを教え、傲慢(ごうまん)にならないように初のテストを非常に難しくしている」と説明した。

 その通りだ。100点の本質は目標であって批判の道具ではないはずだ。IITの学生たちが8点を取ったからといって彼らを批判する人がいるだろうか。

 冷静になって韓国社会を見詰めてみると、100点の精神が目標だった場合は多くの肯定的な役目を果たしたが、批判の道具となった場合は相当な副作用をもたらした。最近論議を呼んでいる資源開発や、相手に恥をかかせるような聴聞会のやり方を見てもそうだ。

 どこの国のものになるのかをめぐり論争を繰り広げる資源確保の戦場には、初めから100点の取り引きなどは存在しない。株式投資を見ても、サムスン電子株を100万ウォン(約10万8000円)で買えば褒められて、120万ウォン(約13万円)で買ったら愚かだと判断する人はいない。買い付けの値段以外にもその間にいくらの配当を受け取ったのか、いくらで売ったのかを計算する。また、他の株式を買った場合や、他の投資家の収益率まで比べてこそ、投資をめぐるそれなりの通知表が見えてくる。資源の値段が底を打つ現在の基準で「高く買った」と大騒ぎする資源外交での国政監査の前奏曲を聞くと、その結末は火を見るよりも明らかだ。そして閣僚などの人事聴聞会も同じようなものだ。100点の仕事をする人を探そうとしているのではない。「100点の人生」を送れなかった候補者の過去を辱める席になっている。韓国社会の至る所で発生する葛藤の現場も同じだ。私の目の梁(はり)の代わりに相手の目のちりを探し出し「なぜ100点ではないのか」と攻撃する様子をよく見掛ける。世の中には100点を基準に批判しなければならないこともある。国防、原発管理などがそれだ。また、100点精神を守っていこうとすることにも同意する。それでこそセウォル号事件のような惨事を防ぐことができる。しかし、常に100点を取れなかったとして批判するのもいただけない。われわれの成長の原動力だった100点精神が「憎い人間」を攻撃する伝家の宝刀になってしまってはいけないのだ。そして、もちろんこの文章も100点とはいえない。

李仁烈(イ・インヨル)産業1部次長
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