李完用の「売国」は現実主義外交の帰結(上)

【新刊】キム・ユンヒ著『李完用評伝』(ハンギョレ出版)
「避けられない現実の中では、得られるものを得ていかなければならない」
愛国と売国の分かれ道で選んだのは「君主制の維持」


 最近、朝鮮王朝の滅亡前後を扱った書籍が相次いで出版されている。高宗や徳恵翁主、英親王、厳皇貴妃にまで、改めて光が当てられている。しかしその中には、誰もが目をそらしたい人物が一人いる。李完用(イ・ワンヨン)=1858-1926=だ。その名前に必要な修飾語は「売国奴」だけで、これ以上言及すること自体、苦痛だった。本書は、その問題の人物に再び照明を当て、激動の歴史の中に送り返した。

 6歳で千字文(子どもに漢字を教えるために用いられた漢文の長詩)を覚え、25歳で科挙に合格した李完用は、官僚生活を始めてからわずか5カ月後、新式学問を修めると決心したところから注目される。「私は20歳までは漢学を尊んだが、甲午改革の運命が巡ってきて儒教を尊ぶ気風が薄れた上、外国との交通が拡大したことで、西洋との交際が切に必要だと考えた。(中略)当時は米国との交流が必要だったため、その時新設された育英公院に入学し、米国に渡った」

 1896年に改革派と保守派が衝突した時も、李完用は「体制内改革派」に属していた。独立門の定礎式で、李完用は次のように演説した。「朝鮮の人々は、米国のように独立し、世界第一の富強なる国となるのか、ポーランドのように滅ぶのか、いずれにせよ人の行動に懸かっている。朝鮮の人々は、米国にようになることを望むべし」

 ところが、じわじわと圧迫を加えてくる列強や、朝鮮内部で起きた政治勢力同士の対立の中で、李完用は愛国と売国の危険な境界に近づいていった。李完用も最初は、乙巳(いつし)条約(1905年に締結された第2次日韓協約)の締結を拒否する考えだった。しかし、日本政府が貫徹の意志を強く持っていることを確認し、高宗も明確に拒絶できないことが分かったため、自分の役割を決定した。

 李完用は、内閣会議で国王に次のように進言した。「もし、やむを得ず(乙巳条約を)許諾するのであれば、問題の条約の内容に、書き加えたり、訂正したりすべき極めて重大な事項があるはず。従って、あらかじめ相談しておかなければならない。条約を結ぶ席では、絶対に中途半端な振る舞いをなさらないように」

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