▲写真=UTOIMAGE
大韓帝国最後の皇太子李垠(イ・ウン)は、乙巳勒約(いっしろくやく、1905年の第2次日韓協約)から2年後の1907年、日本に人質として連れ去られ、56年後の1963年に永久帰国した。日本は緊急閣議を開き、年老いて帰国する昔の人質に餞別(せんべつ)金として5万ドル(現在のレートで約790万円)の支給を決議した。2年後の1965年、両国は2度目の乙巳年を迎え、国交を回復した。国交正常化後、日本が他の..
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大韓帝国最後の皇太子李垠(イ・ウン)は、乙巳勒約(いっしろくやく、1905年の第2次日韓協約)から2年後の1907年、日本に人質として連れ去られ、56年後の1963年に永久帰国した。日本は緊急閣議を開き、年老いて帰国する昔の人質に餞別(せんべつ)金として5万ドル(現在のレートで約790万円)の支給を決議した。2年後の1965年、両国は2度目の乙巳年を迎え、国交を回復した。国交正常化後、日本が他の先進国の譲渡件数を合わせたものよりも多くの技術を韓国に譲渡した。「日米安保同盟」による東アジア戦略が根底にあるというのは明らかだ。植民地支配の傷痕を忘れられない韓国人の感情を考慮しなければならないという判断もあったことだろう。
韓日関係の改善を望む民間人の心は、国家関係よりも純粋だ。先週他界した小説家、宋友恵(ソン・ウヘ)氏の一生の力作が『尹東柱(ユン・ドンジュ)評伝』だ。ところが、初版を出す時でさえも、作家は尹東柱がなぜ立教大学在学中に坊主頭にしたのか知らなかった。その疑問を解いてくれたのが、尹東柱の死後に生まれ、立教大学に通った楊原泰子氏だった。尹東柱の詩を愛し、彼の死を悲しんだ楊原氏は、母校の学報1942年4月10日付で、日本帝国主義が太平洋戦争を勃発させた後、規律を引き締めるとして下した断髪令に関する記事を探し当て、作家に伝えた。作家は改訂版の序文に「日本人の真心のこもった助けで評伝の内容がより一層補完され、美しく完成する日が来るとは想像すらできなかった」と書いた。
尹東柱が編入した同志社大学は1995年、校庭に尹東柱の詩碑を建て、毎年彼の命日(2月16日)に合わせて献花式を行う。詩人の80周忌である今年は、文学博士号も授与する。同校の総長は「詩人を守ってあげられなかった悔しさがある」と背景を説明した。尹東柱の死後、放置されていた彼の墓について、詩人の故郷である満州の竜井を訪れて位置を確認したのは、早稲田大学の大村益夫名誉教授だった。1985年、詩人の墓前に祭壇を設け、お辞儀した。生涯にわたって集めた尹東柱関連の約2万点に及ぶ資料は、一昨年の死去の際、韓国に寄贈された。
韓国プロ野球の発足にも日本球界は大々的に支援した。「3000本安打」の主人公である在日韓国人の張勲(チャン・フン、日本名は張本勲)の後輩の張明夫(チャン・ミョンブ)、金日融(キム・イルユン)が祖国でプレーできるように取り計らった。張勲の師匠に当たる読売ジャイアンツの水原茂元監督の話題には自然と頭が下がる。肝硬変を患っていた体で、1982年1月に訪韓し、トレーニングのノウハウなどを伝授した。2カ月後に予定されていた開幕戦に祝いのため参加すると約束していたが、その後血を吐いて倒れ、あいにく開幕式の前日にこの世を去った。
1905年の乙巳勒約以降、日本の植民地支配からの解放まで、韓日関係は支配と侵奪、抵抗と怒りでつづられた不幸の歴史だった。2度目の乙巳年に当たる1965年に国交回復して以降、両国は過去の過ちを修正しようと共に努力してきた。国家戦略に伴う必要性と尹東柱詩人の死に胸を痛めた民間人の純粋な感情などが一方向に動いた結果だったと思う。
日本は植民地支配に対する申し訳なさから韓国との関係回復に乗り出したわけではないだろう。ドイツ首相がポーランドを訪問してひざまずいたではないかという反論もあるが、これは第2次世界大戦以降、戦犯国から正常国に跳躍するためのドイツの戦略的選択だった。日本も同じだろう。にもかかわらず、韓日両国は「1965年の乙巳年以降」とは異なる3度目の乙巳年を築き上げていかなければならない。2025年初めに張勲氏の韓国国籍放棄のニュースが伝えられた。「日本プロ野球名誉の殿堂に名前が挙がった時よりも、韓国プロ野球のスタートのニュースがよりうれしかった」と言った張勲氏だったために意外だった。張勲氏は普段から「私は韓国人ということが誇らしいが、日本に謝罪を要求するのはやめよう」と話していた。もしかすると、張勲氏は3度目の乙巳年以降の韓日関係が、過去120年と異なることを望んでいたのかもしれない。両国が共に悩み、解決していかなければならない宿題だ。
金泰勲(キム・テフン)論説委員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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