▲1937年から日本の紡績工場で働いたキム・サンナムさん/シネマ月
日帝強占期の「女工」たちに光を当てたドキュメンタリー『朝鮮人女工の歌』、8月7日封切り
今年98歳のキム・サンナムさんは若いころ、小さな体で家族全員の生計を背負い、「飯櫃(めしびつ)」と呼ばれた。年齢をごまかし、11歳のころから大阪の紡績工場で働いた。認知症によりほとんどの記憶が消えたが、工場でのことは生々しく覚えている。「日本の人が私にちょっと突っかかってくるのが見える。私は黙ってるものか、絶対..
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▲1937年から日本の紡績工場で働いたキム・サンナムさん/シネマ月
日帝強占期の「女工」たちに光を当てたドキュメンタリー『朝鮮人女工の歌』、8月7日封切り
今年98歳のキム・サンナムさんは若いころ、小さな体で家族全員の生計を背負い、「飯櫃(めしびつ)」と呼ばれた。年齢をごまかし、11歳のころから大阪の紡績工場で働いた。認知症によりほとんどの記憶が消えたが、工場でのことは生々しく覚えている。「日本の人が私にちょっと突っかかってくるのが見える。私は黙ってるものか、絶対に負けなかったよ」
日帝強占期に大阪の紡績工場で働いていた朝鮮の女工たちに光を当てたドキュメンタリー『朝鮮人女工の歌』が、8月7日に封切りされる。1910年代、朝鮮の経済は日帝に編入され、10代の少女たちはお金を稼ぐため日本へ渡った。朝鮮人女工が最も多かった岸和田の紡績工場では、1919年から41年まで、およそ3万人が働いた。7月30日に開かれた試写会で、イ・ウォンシク監督は「強制労役や慰安婦に関する映画は多いが、女工たちの物語は関連研究すら見つけるのが難しかった」と語った。
誰も注目しなかった若い女工たちの厳しい暮らしを、温かい視線でよみがえらせた。10代で朝鮮を離れ、今はおばあさん(ハルモニ)になった女工たち22人の生々しい証言が収められた。女工たちは毎日12時間、昼夜2交代で働き、居眠りして糸が切れでもしたら罵声やむち打ちが飛んできた。故郷にお金を送ったら、食べていくのも困難だった。食べるものがなく、日本人が捨てた牛・豚の内臓(ホルモン)を焼いて食べていた女工たちは、「朝鮮のブタ」と呼ばれ、蔑視された。
暗く哀しい歴史にもかかわらず、この映画は、女工たちの若き日々を輝かしく描くことを選んだ。在日韓国人4世の俳優たちが過去を再現したドラマが、自然に染み入る。綿ぼこりが雪のように舞う工場で眠気をこらえつつ働く場面や、日課が終わって海辺でホルモンを焼いて食べる姿は、物悲しいが強靭(きょうじん)な映画の主人公のように見える。そのころのことを証言してくれたハルモニたちに対する献辞だろう。完成した映画を見たハルモニたちは、若いころに戻ったように「母親のことがとても思い浮かんだ」と泣いたという。
映画の中で女工たちは、気の毒な被害者ではなく、自分の生き方を開拓していく主体的な女性たちだ。女工たちは、故郷に送る手紙を書くため、夜学を開き、ハングルを学び、劣悪な労働環境の改善を要求し、1930年代には大規模なストライキを起こした。記録によると、朝鮮人女工が先頭に立ってストに入ると、日本人女工も後から加わったという。朝鮮人女工について研究してきた歴史学者の樋口洋一氏は「雑草のように強靭な女性たちを尊敬するようになった。女工の苦痛だけでなく勝利と成就にも光を当てるべき」と語った。
朝鮮人かつ女性、移住労働者として三重の差別に直面した女工たちの生きざまを多層的に見つめている。ややもすると反日感情に訴えることになりやすい素材であるにもかかわらず、抑制された言葉で、あるがままの事実を淡々と伝える。手数料名目で女工たちのお金を横取りし、性的搾取や暴力をためらわない朝鮮人団体「相愛会」や、解雇された日本人同僚のためにストに乗り出す朝鮮人女工たちの物語も共に取り上げた。イ監督は「朝鮮人女工を研究した日本の歴史学者たちを訪ねたとき、『私を訪ねてくれる人をずっと待っていた』と言っていた。過去を隠さずあらわにするとき、変化の種になり、韓日関係を最初からやり直せるという共感帯を持って出発した」と語った。
イ・ウォンシク監督は映画『四月の雪』『ハピネス』などのシナリオを書き、脱北者のシングルマザーが主人公の映画『北から来た旅行者』や、キリスト教映画『最愛の君~世界でたった一人の味方~』などの演出を手掛けた。大阪出張で偶然、赤い塀に打ち込まれた古い十字架を見たことがこの映画の始まりになった。調べてみるとそこは寺田紡績の工場で、十字架は、朝鮮人女工たちが逃げられないように金網を張っていた支持台だった。
タイトルは、在日韓国人の作家・金賛汀(キム・チャンジョン)が書いた同タイトルの本から取った。1970-80年代に自らの足で資料や証言を集めた同書には、女工たちが、一日のつらい日課を歌に歌っていたいた記録が残っている。「さあ、われら女工よ、きょうの日課を言ってみよう」で始まる歌は「それでもわれらはまた一日を生きていく」で終わる。イ監督は「厳しい時期を克服した朝鮮人女工たちは、家族を守って代を重ね、粘り強く生き残った。歴史の被害者ではなく、生きることに対する意志で苦難の時代を貫いた勝者、という観点で映画を作りたかった」と語った。
■朝鮮人女工関連の記録(1913年12月26日付大阪朝日新聞)
「大阪地域の紡績会社では、朝鮮の女子を大勢使っている。(中略)内地の女子と比べると柔順で勤勉で、何より男子に夢中になることがないのが大きな利点だ。今年6月、募集者を慶尚南道晋州に出張させて連れてきた。14歳の女子から27歳までいる」
ペク・スジン記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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