▲韓国の国宝でユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産にも指定されている慶州の石窟庵。/国立文化財研究院
慶州の石窟庵は西暦750年ごろ、新羅の第35代・景徳王代に宰相を務めた金大城(キム・デソン)=700-74=が創建したといわれている。『三国遺事』の記録があるからだ。『三国遺事』の「大成孝二世父母」条に「金大城が現世の両親のために仏国寺を、前世の両親のために石仏寺(石窟庵)を建てた」という記述がある。石窟庵は20世紀初めに広く世に知られるようになった後、宗教学・美術史学・歴史学などの人文学だけで..
続き読む
▲韓国の国宝でユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産にも指定されている慶州の石窟庵。/国立文化財研究院
慶州の石窟庵は西暦750年ごろ、新羅の第35代・景徳王代に宰相を務めた金大城(キム・デソン)=700-74=が創建したといわれている。『三国遺事』の記録があるからだ。『三国遺事』の「大成孝二世父母」条に「金大城が現世の両親のために仏国寺を、前世の両親のために石仏寺(石窟庵)を建てた」という記述がある。石窟庵は20世紀初めに広く世に知られるようになった後、宗教学・美術史学・歴史学などの人文学だけでなく建築学・数学に至るまで、さまざまな分野で幅広く研究が行われたが、唯一、石窟庵の造成時期については特に疑いもなくこの記録が定説として固まっている。
ところが釈迦(しゃか)生誕日=旧暦4月8日。今年は5月15日=の前日に、石窟庵の造成時期を少なくとも40年は繰り上げて考えてみるべきだとする主張が学界で提起された。仏教彫刻研究者の閔丙賛(ミン・ビョンチャン)元国立中央博物館長は14日、国立春川博物館で開かれた「再び訪れる光:禅林院址(し)金銅菩薩(ぼさつ)立像」国際学術シンポジウムの基調講演で「石窟庵は750年ごろ金大城が創建したのではなく、706年から711年の間、新羅第33代の聖徳王代に創建されたものとみるのが妥当」として、750年制作説の問題点を指摘した。
まず、『三国遺事』の内容を細かく見てみると、次のようなものとなる。「慶州・牟梁里で、ある女性が息子の大城と共に貧しい暮らしをしていた。ある日、母子は『布施をすれば万倍の利を得ることができる』という僧侶の話を信じて、生計の唯一の拠り所である田を僧侶への施しにした。少し後に大城は死に、その日の夜、宰相の金文亮(キム・ムンリャン)の息子として転生した。成人した大城は、育ててもらった恩に報いようと、現生の両親のために仏国寺を、前世の両親のために石仏寺を建立した。石窟庵を造ろうとして大きな石に手を加え、仏龕(ぶつがん。仏像を安置する小室)のふたを作っていたところ、石が突然、三つに割れた。大城は憤慨して眠ったが、夜の間に天神が降臨し、全て完成させて戻っていった」
閔・元館長は「三国遺事は高麗時代の13世紀に僧侶の一然が書いた。石窟庵創建についての内容は、当時慶州地域に伝えられていた説話『郷伝』から抜粋したもので、ごく一部の歴史的事実や実在していた人物・事物に架空の内容を付け加えてつくり出した虚構の物語」だとし、三つの根拠を挙げて反論した。(1)当時の中国や日本などにおける仏像様式の展開過程(2)現存する統一新羅時代の仏像様式(3)八部衆・金剛力士・四天王・帝釈天・梵天・十大弟子から成るいわゆる釈迦浄土の具現が東アジアで流行した時期-などと比較検討してみると、710年ごろの創建とみるべきだというのだ。
閔・元館長は「石窟庵の本尊仏は、中国・日本の仏像と比較してみると8世紀前半の様式をよく示している」とし、中国・山西省ゼイ城県で出土した釈迦如来座像(703年)、石造如来座像(710年)や、奈良・薬師寺金堂の金堂薬師如来座像(718年ごろ)などを例に挙げた。「石窟庵本尊像をこれらの仏像と比較してみると、顔や胸の肥満度、衣のしわの硬直性などの点から、おおむね703年から710年までの間に該当する」というのだ。
また「統一新羅時代の仏像の中で、銘文により正確な制作年代が分かる皇福寺址金製如来座像(706年)や甘山寺石造弥勒(みろく)菩薩立像(719年)を見ると、手の様子や台座を覆いつつ垂れ下がっている衣の形式、写実的な服のしわなど、中国の同時代の仏像と比べてもほとんど時差を置くことなく同じ様式で作られたことが分かる」とし「7世紀後半から8世紀前半の東アジア3国の交流は極めて活発で、聖徳王(在位702-37年)代は遣唐使を46回も派遣するなど、中国と非常に密接な関係を維持していた。唐の仏像様式がほぼリアルタイムで統一新羅に伝えられたとみるべき。8世紀前半の中国と日本の仏像様式を比べてみても、時代の差をほとんど感じることはできない」と述べた。
石窟庵は、釈迦浄土の世界を完全に具現しようとした仏教彫刻だ。閔・元館長は「日本でも、石窟庵のように八部衆・四天王・帝釈天・梵天・十大弟子などを造成して釈迦浄土を積極的に具現した時期は740年ごろまで。その後は華厳思想が流行し、仏教彫刻の流れが変わる」とし「仏教を日本に伝えた韓半島で、釈迦浄土を具現した仏教彫刻が日本よりも遅れて造成されたというのもおかしい」と指摘した。閔・元館長は「石窟庵の造成時期は、中国との交流が最も活発だった聖徳王代で、『郷伝』に名前が出てくる金文亮が宰相を務めていた西暦706年から11年の間に作られたのだろう」「父親の金文亮は石窟庵、息子の金大城は仏国寺の建立に深く関与し、これが後代に脚色されて『郷伝』に伝えられたとみるべき」と語った。
許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
Copyright (c) Chosunonline.com