▲日本の石川県輪島市に急きょ派遣された成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長。成支局長は3日未明に輪島市立門前西小学校の体育館で休んだ。
1月3日未明2時55分、日本の石川県輪島市門前町の輪島市立西小学校体育館で「緊急速報、直ちに避難してください」という緊急地震速報の警告が鳴り響き眠りから覚めた。度重なる地震の発生を知らせる緊急地震速報が体育館の中で鳴り響いた。周囲で休んでいた日本人の被災者たちは動揺し、立ったり座ったりしていたが、しばらくすると再びその場で横になった。ここは輪島市が準備した被災者のための避難所だ。高さが海抜14メ..
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▲日本の石川県輪島市に急きょ派遣された成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長。成支局長は3日未明に輪島市立門前西小学校の体育館で休んだ。
1月3日未明2時55分、日本の石川県輪島市門前町の輪島市立西小学校体育館で「緊急速報、直ちに避難してください」という緊急地震速報の警告が鳴り響き眠りから覚めた。度重なる地震の発生を知らせる緊急地震速報が体育館の中で鳴り響いた。周囲で休んでいた日本人の被災者たちは動揺し、立ったり座ったりしていたが、しばらくすると再びその場で横になった。ここは輪島市が準備した被災者のための避難所だ。高さが海抜14メートルとのことで、突然津波が襲ってきても安全と考えて眠りに就いた。元日の1日午後に石川県の能登半島を襲ったマグニチュード7.6の強い地震で最も大きな被害が発生した地域が輪島市だ。この地震により3日夜までの時点で73人の犠牲者が確認されている。
前日の夜8時30分ごろ西小学校体育館に到着した。避難所とはいっても決してリラックスできるわけではない。3階建ての建物は全てが完全に闇の中だった。電気も水道もストップし、何とか風を防げる程度だ。電気はしばらく通ったかと思えば再びストップする状態を繰り返した。自宅が崩壊し体だけ何とか逃げてきた約130人の地元住民は暖房もない寒い体育館で段ボールをベッドに整然と余震が相次ぐ夜を過ごした。
日本人は外国人記者の訪問に最初は難色を示した。その理由について避難所のボランティアは「避難所には高齢の方がたくさんいる。インフルエンザの感染が広がらないが心配だ」と説明した。この最悪の状況で避難所にインフルエンザの感染が広がれば致命的だ。入所が認められた時はトイレの使い方を厳守するよう念を押された。感染対策のためトイレを出るときには必ず手を消毒しなければならないという。
1階の教室は階段の使用が大変な高齢者、2階には比較的若い被災者がいた。1階講堂の入口にはベッドの代わりに使う包装用の段ボール箱がきれいに積まれてあった。「まるでホームレスだが、それでもないよりはましだ」とすぐ横にいた29歳の日本人男性が語っていた。毛布はないが大きな防災用のアルミシートが配布された。前日から避難していた被災者の中には壊れた自宅から布団やマットレスなどを何とか持ち込んで寒さ対策をしている人もいた。
深夜になっても1時間に1-2回は建物を揺るがすような地震が起こり、それに伴う大きな音が鳴り響いた。余震で建物全体が揺らぐ時の音だ。体育館で話を聞いた76歳の男性は「一昨日の強い地震で木造の自宅が完全に崩壊した」「ここは丈夫な鉄筋の建物だからこんな音が出る。そう考えれば逆に安心だ」と述べた。
この日の夜はずっと雨や雪が降ったりやんだりしていた。雨が屋根を打ち付ける音が体育館の中で大きく鳴り響いた。この日石川県では最低気温がマイナス2度まで下がった。小学校の体育館なので一般住宅ほど風を防ぐことはできず、あちこちからすきま風が吹いてきた。体育館には暖房設備がない上に、天井も高いため手足が冷えてぐっすり寝ることはできなかった。服を重ね着すれば何とか耐えられたが、足先がかなり冷えた。20年前に徴兵で酷寒の訓練を受けた時を思い出した。
午前5時にトイレに行ったところ、高齢の男性が女性用トイレの前に立っていた。その男性は高齢者を助けるような口調で「終わったら言ってくださいね」と声を掛けると、女性用トイレの中から「うん」という声が聞こえた。気を遣わせないように外に出た。「避難所では運動場の隅で小便をしてもよい」との説明を事前に聞いていた。外に出ると40代くらいの男性が車の中で手をこすっていた。寒さのため車のヒーターで体を温めていたようだ。
石川県内では地震直後から水や食料はもちろん、ガソリンも足りない状態が続いている。そのため深夜に車のエンジンをかけて寝ることはできない。この40代男性は30分ほどすると体育館に戻った。「災害時に停電になった状況では電気自動車は意味がない」とふと思った。
電気や通信が途絶えると何もできなくなる。体育館の中には石油ストーブや電気温風機などが4台あった。しかしこの石油ストーブも電気がなければ動かない機種だった。そのため体育館の中には八つの灯油タンクがあったが、どれも無意味だった。日本にはNTTドコモ、KDDI、ソフトバンクの三つの大手移動通信会社があるが、電波が通っているのはドコモだけでそれ以外は使えなかった。
朝起きるとアップルウオッチは切れ、アイフォーンはバッテリーが17%しか残っていなかった。電波が届かない場合、スマートフォンは電波を探そうとより多くのバッテリーを使うらしい。しばらくしてスマホを機内モードに変更した。
朝7時にスピーカーから起床時間を知らせるベルが鳴った。廊下に出ると割れたガラスの破片や壊れた壁などが目に飛び込んできた。震度7の地震は本当に恐ろしいことを実感した。8人の男性たちが朝になるとすぐトイレで使う水をくむため学校のプールに向かった。その場にいた60歳の男性は「プールにはまだ水があるので、断水になってもトイレで水を使えるのは幸いだった」と述べた。朝8時20分に朝食の配給が始まった。おにぎりやインスタントのスープなどだ。自分たちが被災した状況でも、日本人は外からやって来た人間と食事を分け合う優しさを忘れてはいなかった。
石川県輪島市=成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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