【私の現代史の宝物】歌手キム・ヨンジャさん
今年は大韓民国樹立75周年。韓国は戦争の廃虚から立ち上がり、世界史においても類を見ない成長を遂げた。その激しい時代の流れを内包する現代史の「宝物」を発掘する。平凡に見えるものにも、個人の思い出と現代史のワンシーンが宿っている。潘基文(パン・ギムン)元国連事務総長、金亨錫(キム・ヒョンソク)延世大学名誉教授、舞台俳優のソン・スクさん、映画俳優・実業家の申栄..
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【私の現代史の宝物】歌手キム・ヨンジャさん
今年は大韓民国樹立75周年。韓国は戦争の廃虚から立ち上がり、世界史においても類を見ない成長を遂げた。その激しい時代の流れを内包する現代史の「宝物」を発掘する。平凡に見えるものにも、個人の思い出と現代史のワンシーンが宿っている。潘基文(パン・ギムン)元国連事務総長、金亨錫(キム・ヒョンソク)延世大学名誉教授、舞台俳優のソン・スクさん、映画俳優・実業家の申栄均(シン・ヨンギュン)さん、漫画家のイ・ヒョンセさん、詩人のシン・ダルジャさん、キム・ジャンファン牧師に続き、歌手キム・ヨンジャさんの「宝物」について聞いた。
白いチマチョゴリの上に赤い花が咲いている。グリーンのレコードジャケットに書かれたデビュー曲のタイトルは『女の一生』。1968年に歌手イ・ミジャさんがリリースした曲の歌詞を日本語にし、1977年に日本で発売した。
「成功したい」と言って外国に一人で渡った娘に、母親は「21歳で『玉のこし』に乗る(幸せな結婚をする)だろう」というある僧侶の言葉を伝え、遠方にいる娘を応援した。威勢良く国を出たものの、寂しくてつらかった。そんな時、歌手キム・ヨンジャさん(64)は母親の言葉を思い出して、大きな花が描かれた韓服(チマチョゴリ)に癒しを感じた。韓服は母親の懐のようだった。圧倒的な声量を調節するための「ブルートゥース唱法」(マイクを口からできるだけ遠く離す歌い方)から華やかな衣装まで、さまざまな姿が思い浮かぶが、それを上回るステージを生み出すキム・ヨンジャさん。1974年にデビューし、今年で歌手人生50年を迎える彼女は、自身の宝物として「韓服」を挙げ、語り始めた。
■日本での活動は38年。ステージ衣装はいつも韓服
日本での活動が最初から成功したわけではない。1977年にトリオ・レコード社のオーディションに合格して日本でデビューした。だが、3年間の活動契約期間が終わって待っていたのは解雇通知。「日本の文化にうまく適応できていなかったようです」。白い韓服姿のレコードは在庫として残り、ジャケットは黄ばんでいた。
デビューから7年以上も無名だった。キム・ヨンジャさんは「韓服の大きな花柄のようにいつかは満開の花が咲くだろう」と自らに言い聞かせた。韓国に戻り、1981年に出したトロット(韓国演歌)メドレー『歌の花束』で人気を集めた。翌年レコーディングした『本当ですか』は最初のヒット曲となった。1984年の『水銀灯』まで相次いでヒットし、KBSの「今年の歌手賞」とMBCの「10大歌手歌謡祭 歌手賞」を受賞した。
そこで、デビューで失敗した日本に再び進出しようと決心し、1988年のソウルオリンピック賛歌『朝の国から』の日本語バージョンをリリースした。ソウルオリンピックの閉会式で歌ったため、日本でもよく知られていた。日本を初めて訪れた時のように韓服をまた着た。「韓服は優雅です。韓国人としてのアイデンティティーを守ってくれる、精神的な鎧(よろい)でもあります」
今度は「大ヒット」だった。1989年には日本歌謡界最大の祭りであり、代表的な年末歌謡祭であるNHK紅白歌合戦に初めて出場した。当然、韓服を着て出た。演歌にも挑戦し、『暗夜行路』『熱い河』などの演歌が1位になった。韓服は日本の観客には称賛され、同胞には慰めと癒しを与えた。
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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