▲2018年5月30日、記念の手形を取る「日本プロ野球界のレジェンド」張本勲さん。
「真夏で蒸し暑かった1945年8月6日、当時5歳だった私が友達と外に遊びに行こうとしていたところ、『ピカッ、ドン』という音がしました。気を失った後、目を開けたら、母が私をギュッと抱きしめていました。ガラスの破片が突き刺さった母のチマチョゴリ(韓服)は血で赤く染まっていました」
10日、在日韓国人2世の元プロ野球選手、張本勲さん=韓国名:張勲(チャン・フン、82)=は広島に米国の原子爆弾が落ちた瞬..
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▲2018年5月30日、記念の手形を取る「日本プロ野球界のレジェンド」張本勲さん。
「真夏で蒸し暑かった1945年8月6日、当時5歳だった私が友達と外に遊びに行こうとしていたところ、『ピカッ、ドン』という音がしました。気を失った後、目を開けたら、母が私をギュッと抱きしめていました。ガラスの破片が突き刺さった母のチマチョゴリ(韓服)は血で赤く染まっていました」
10日、在日韓国人2世の元プロ野球選手、張本勲さん=韓国名:張勲(チャン・フン、82)=は広島に米国の原子爆弾が落ちた瞬間を語りながら、何度も涙ぐんだ。80歳を過ぎても、78年前の記憶が生々しくよみがえるようだった。張本さんは「その日は避難して、町の畑に行きましたが、ひどいやけどを負って皮膚が焦げた人だらけでした。ひどいにおいも覚えています」と話した。
張本さんは日本プロ野球界で23年間にわたり活躍し、3085安打・504本塁打を記録したスター選手。日本プロ野球の殿堂入りを果たしているが、韓国国籍者だ。太平洋戦争末期の1945年8月6日午前8時15分、米軍が広島に投下した原爆で生き残った被爆者でもある。
尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と日本の岸田文雄首相は7日の韓日首脳会談で、G7広島サミット(第49回先進国首脳会議、5月19日-21日)に合わせ、広島平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑を訪れることで合意した。被爆者であり、日本で自ら韓国人であることを公表して生きてきた張本さんが、両国首脳の慰霊碑訪問に対して抱く感慨はひとしおだ。「新型コロナのことで対面は難しいです」という張本さんは電話インタビューに応じてくださった。インタビューでこのニュースについて尋ねると、「お二人には感謝しかありません」「もう(訪問する姿が)ありありと目に浮かんでいます。戦後初めてですよね? 私も、私の家族も、在日同胞たちもみんな、韓国人原爆被害者慰霊碑に行きます。うちの(=在日同胞の)おじいさん、おばあさん、おじさんたちがみんなそこに眠っているからね。慰霊碑の前に立つたびに、心の奥底では「お金を稼ぐために遠いよその国まで来ていなかったら…」という思いもありますが、これもすべて人生だということではないでしょうか」と答えた。
張本さんは1940年6月19日、広島市内で生まれた。両親は慶尚南道昌寧郡大合面の出身だ。1939年に母親が兄1人と姉2人を連れて広島に来た。お金を稼ぎに日本に来た父親について来たのだ。その後、父親は帰国して病死し、家族は故郷に帰らず日本に定住した。
原爆による3000℃を超える熱で完全に破壊されたり全焼したりした家屋は広島だけで5万2000軒に達した。爆心地から直径1.2キロメートルの区域に住んでいた人々の半数が死亡した。白血球減少など被爆の後障害で、1945年末までに広島の人口の40%に当たる約14万人が亡くなった。張本さんは「熱が体を焼き、人々の顔や手の形が変わった。人間の肌や肉が焼けたにおいはひどいものだった。熱気のせいで多くの人々が畑に行く途中にある小さな川に飛び込んだが、みんな死んだ」と話した。
その日、張本さんの家族も全員無事という願いはかなわなかった。張本さんは「いつも自慢に思っていた、肌が白く背の高い小学6年生の長姉を亡くしました」と言った。「原爆が投下された時、(張本さんと母親・次姉がいた自宅ではなく)長姉は数十人の子どもたちと一緒に学校で倒れました。母親は熱で溶けて顔も分からない子どもたちの中から名札を頼りに姉を探しました。姉は色白で、一緒に道を歩いているとみんなに『きれいだ』と言われていたのに…。その顔がただれてしまい、見分けもつきませんでした」
全身にやけどを負った長姉は再会を果たした翌日、この世を去った。張本さんは「母親に『姉はいつ死んだのか』と尋ねたが、何も答えなかった」と話した。「明け方に(母親が)号泣する声が聞こえたから、多分その時だったのでしょう。『地獄という世界があるのなら、その瞬間こそまさにそうだった』と今でも思います」。A・B・C・D等級に分類された被爆者健康手帳(広島・長崎の原爆被爆者に日本政府が交付する手帳)にはA等級と記されている。張本さんは「原爆投下地点から1キロメートル以内にいたという意味です」「大体2-3キロメートル離れていた人々はほとんど死にましたが、私は助かりました。運命というのは恐ろしいものです」と言った。裕福でなかった張本さん一家は江戸時代(1603-1868年)からあった、山の中腹の奥まった集落で暮らしていた。その山が原爆の放射能と熱を防いでくれたのだ。
成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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