「当時、私は固く信じていた。日本軍は特別な加護を受けた神の軍隊だと。殉教者だという信念があった」。先月、沖縄にある米軍基地キャンプ・ハンセンの講堂にて。髪を短く刈り、戦闘服を着た海兵隊員300人を前にして、白髪の日本人神父が口を開いた。パウロ仲村実明・日本聖公会沖縄教区元主教(87)だ。
仲村元主教はこの日、聖職者として将兵を激励するためにマイクを握ったのではなかった。軍国主義を注入され、神風特..
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「当時、私は固く信じていた。日本軍は特別な加護を受けた神の軍隊だと。殉教者だという信念があった」。先月、沖縄にある米軍基地キャンプ・ハンセンの講堂にて。髪を短く刈り、戦闘服を着た海兵隊員300人を前にして、白髪の日本人神父が口を開いた。パウロ仲村実明・日本聖公会沖縄教区元主教(87)だ。
仲村元主教はこの日、聖職者として将兵を激励するためにマイクを握ったのではなかった。軍国主義を注入され、神風特攻隊の隊員として訓練を受けた若いころの記憶を淡々と打ち明け、当時のめり込んでいた日本の軍国主義がどれほど荒唐無稽なものだったかを強調した。講演の内容は、最近になって米軍の機関紙『スターズ・アンド・ストライプス』に掲載された。
仲村元主教は、第2次世界大戦当時、日本軍が連合軍を阻止するため若い兵士で編成した「神風」特攻隊の隊員として出撃を待っていたが、日本の敗戦で命を永らえた。沖縄で生まれた仲村元主教は、幼いころから「神のような存在である天皇のため命を捨てることが最高の美徳」という信念を注ぎ込まれた。連合軍の攻勢で日本の敗色濃厚となった1944年、日本軍が特攻隊を編成すると、17歳だった仲村元主教は「志願入隊」を装った事実上の徴集を受けた。「当時の日本は、跡継ぎの長男のほかは天皇のために命を捨てることを要求した。後に分かったことだが、長男でもやはり戦闘に動員され、犠牲になるケースが多かった。日本はそれすら守らなかったわけだ」
日本軍は訓練兵に対し、飛行技術よりも「自爆攻撃」の正当性を注入することの方に力を入れた。「教官たちは、1人が自爆攻撃を敢行すれば数百人を吹き飛ばすことができ、日本は勝利すると強調した」
帰還することのない出撃なので、往復飛行分の燃料を積むことはなかった。仲村元主教は、出撃命令を受けた同僚隊員が「(自分は永遠に戻ってこないので)明日の俺の夕飯はお前が食え」という言葉を残して飛び立っていった瞬間を忘れることができないと語った。仲村元主教の出撃する順番が徐々に迫ってきたが、肝心の爆撃に使う飛行機が底を突いた。すると日本軍は、すぐに別の方法を考案した。「人間魚雷」を使って、海で自爆攻撃を敢行するというのだ。しかし、仲村元主教が人間魚雷での特攻に備えて九州の佐世保港に配置転換されたとき、日本が連合軍に降伏した。
敗戦後も骨の髄まで日本人だと信じていた仲村元主教の信念は、その後進学した大学で、講義中に開かれた第2次大戦関連の討論で木っ葉みじんになった。学生たちは、天皇制の利点や欠点ばかりを熱心に論じ、故郷沖縄の犠牲には何ら関心がなかった。「すぐに講義を蹴って出ていき、教会に向かった。神父様は、私と共に涙を流して語った。小指(沖縄)が切られる苦痛を感じられないのなら、それは全身(日本)が死んでいるのだと」。これをきっかけに聖職者の道を歩んだ仲村元主教は「神は、容易には理解し得ない方法で私の生き方を計画し、導いてくださったようだ」と語った。
鄭智燮(チョン・ジソプ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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