▲ソウル市芦原区の北ソウル美術館で展示されているホンイ・ヒョンスクの映像作品「峨嵋洞碑石村」

 釜山市峨嵋洞に行ってきた。「碑石村」と呼ばれる場所だ。釜山駅の向かい側から87番のバスに乗って南西へ20分走り、「カチセギル入り口」の停留場で降りた。傾斜が45度以上もありそうな急坂だ。スレートぶきの小さな家が連なっていた。ここを訪れたのは、ソウルの北ソウル美術館で開かれている展示の作品を見たからだった。アーティストのホンイ・ヒョンスクが演出した13分42秒の動画作品「峨嵋洞碑石村」。同じくアーティストのヨム・ジヘとの2人展で開催している「石と夜」の展示作品の一つだ。今月30日まで開かれている。

 峨嵋洞碑石村は、植民地時代の日本人共同墓地があった場所だ。日帝敗戦後、日本人遺族らは墓をそのままにして急いで釜山を離れなければならなかった。5年後に6・25戦争が起きると、戦乱を逃れた避難民が戦時首都の釜山に押し寄せた。なんとしてでも生きていかねばならなかった。墓を壊し、その上にバラックを建てた。墓石や石仏は土台になり、路地の階段になり、塀になり、踏み石になり、洗濯板になった。

 今も各所に痕跡が残っている。地区の入り口に当たる教会から集落に入った。二人肩を並べて歩くのも難しいほど狭い路地が、斜面上に迷路のように続いている。家は消えて土台だけが残っている場所に、漢字の刻まれた墓石があった。「明治四十二年五月廿七日没」。1909年5月27日に没した人物の墓石だ。名前は土台内側の方に刻まれていて確認できない。大正2(1913)年8月12日のものもある。死没した日は塀の内側の方に刻まれ、墓の主人の名前が外に見えている墓石もある。「國分治之墓」という字が鮮明だ。もしや名の知れた人物だろうか? 日本のポータルサイトに名前を入力すると、検索結果として出たのは、1964年の映画『東京五輪音頭』の脚本家だという同姓同名の「国分治」氏だけだった。

 ホンイ・ヒョンスクは動画作品で創造を広げ、墓の中にいたであろうある日本人兵士を思い浮かべている。動画の中では、日本人俳優(サト・ヒロム)が上着を脱いだ若い兵士に扮(ふん)し、墓から出てきて集落を歩き回る。ホンイ・ヒョンスク自身は集落の住民を演じた。動画には韓国語と英語の字幕が付き、展示場には低い声で詠ずる兵士の日本語が響く。「私が地中からあなたのことをもっとよく見れば、(中略)飯を炊く匂いのせい、すっぱいタオルの匂いのせいだ」「私があなたに出してあげられるものは、冷たい石の体だけだったが、あなたはそこに寄りかかって思いきり泣いた」「あなたが私にくれたのは涙の滴の温かみ、尻の体温だった」

 日本人墓地の上に形成された避難民集落という、この苦難に満ちた史実を、どのように見るべきか。自国民の墓も守れない侵略者の敗退に「事必帰正(全てのことは必ず正しい道理に帰する)」の痛快な気分を感じるべきだろうか。植民地にも戦争にも打ち勝った韓国の民草の粘り強い生命力を読み取るべきだろうか。ホンイ・ヒョンスクは、一段階踏み出している。作品の説明に「避乱民は、死者の上で生者が暮らせるように居所を出してもらったことに対して申し訳なさとありがたさがあり、祭祀(さいし)や慰霊祭を共に執り行ったという。ここに埋められている人々は支配層ではなく庶民や下層民出身で、つらい生活を送り、死んでいったのだという同病相憐の認識があったという」と記した。

 動画作品の最後で日本人兵士は、ホンイ・ヒョンスクと「二人舞」をしながらこう語る。「私はあなたを置いていくことはできない。(中略)生きていようと死んでいようと、あなたと私は既に同じ種族だからだ。それほどに私たちは、あまりにも近くにいるからだ」。今も住民たちは、数多くの苦労にもかかわらず、各家庭にプロパンガスのボンベを置いて墓石の上で暮している。展示にも村の旅行にも感動して戻ってきた。

李漢洙(イ・ハンス)記者

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