個人的な話をまずやろうと思う。日記帳にでも書けというような非難を浴びるところだが、個人の内密な告白は歴史を記録(記憶)する微視史の一つの方法になる。

 1987年は、大学2年生のころだった。4・13護憲措置は大統領直接選挙制(改憲)への熱望に冷や水を浴びせた。6月10日、18日、26日と続く街頭デモに乗り出した。ソウル市庁・南大門付近で「護憲撤廃。独裁打倒」のスローガンを叫んだ。戦闘警察が撃つ催涙弾の粉末をかぶったこともあった。このときのデモが6・29宣言につながり、大統領直接選挙制を定めた現行の韓国憲法に至る契機になったとすれば、筆者も「87年体制」に砂粒程度は寄与したものと考えた。1960年の学生革命に加わった「4・19世代」や1964年の韓日協定反対デモを繰り広げた「6・3世代」のように、あのころのわれわれを後日「6・10世代」と呼ぶだろうと思った。しかし一部の学生運動関係者が、税金を使うポストに30代で就き、民主化の実を食い荒らす中で、「386世代」(60年代に生まれ80年代に大学へ通った30代)という族譜(家系図)なき名称が誕生した。

 韓国国会が大統領弾劾案を初めて議決した2004年3月中旬、ちょうど大学の同期の集まりがあった。友人は興奮していた。直選大統領の弾劾は民主主義の破壊だとし、熱くなっていた。わたしは反論した。「国会で弾劾案を議決した。今では憲裁で判断すればいい。民主主義とは手続きを守ることだ。手続きの上では何も問題はない」。友人はすっくと立ち上がり、酒瓶を割って叫んだ。「なに、この〇〇め! おまえは朝鮮日報で出世しろ! このイヌ〇〇め!」。友人の祝福(?)は過分のことだったが、悪口を浴びせて威力をちらつかせる行動は全く民主的ではなかった。学生時代に一度もデモをしたことのない友人は、なぜ後になって「闘士」となったのだろうか。

 2度目の大統領弾劾案議決の時、ろうそくを持った人々の衷心は理解できた。しかし「ろうそく革命」という名称には同意できなかった。弾劾案の議決、憲法裁判所の決定、繰り上げ大統領選挙と続く過程は、憲法秩序を超える革命でなかったからだ。弾劾に首肯しようとしまいと、手続きにのっとる。それが民主主義だった。

 茶山・丁若鏞(チョン・ヤギョン)は100年先を見通した。1817年に著した『経世遺表』において「今、改革しなければ国は必ず滅ぶ」とつづった。本の原題は「邦礼草本」だ。くに(邦)の礼についての本、という意味になる。序文にこう記した。「ここで論じるのは法だ。法でありつつ礼と称する理由は何か。いにしえの聖王は礼で国を治め、礼で民を導いた。礼が衰退するや、法という名が生じた。法は国を治めるものでも、民を導くものでもない」

 『論語』によると、礼とは手続きを守ることに尽きる。孔子は太廟(たいびょう、宗廟)に入ると、祭祀(さいし)の手続きについて尋ね続けた。ある人が、孔子をあざけった。「誰が、孔子は礼をよく知っていると言ったのか。(手続きを)尋ね続けていたじゃないか」。孔子は言った。「それ(そのように尋ねること)が礼なのだ」(『論語』八佾第三・三之十五)。21世紀にもなって孔子様のお言葉かね、と思うか? 現代の政治学者、ハーバード大学のスティーブン・レビツキー教授、ダニエル・ジブラット教授の語る民主主義の規範とも通じる。両教授は、相手を認める「相互寛容」、法的権限を慎重に用いる「制度的自制」を民主主義の核心に挙げた。

 1987年以降、直選大統領の口から「戒厳」という言葉が出るとは想像もしなかった。自らどれほど適法を主張しても、国民に対する礼ではなかった。だから国会で弾劾案が議決されたのだ。しかし、史上初の現職大統領逮捕・勾留へと至る過程、その後の裁判所乱入と暴力行為は、果たして手続きに基づくものなのか。互いに適法だと主張し、法を無化する状況にあるとき、いっそう慎重に守るべきものは手続きのみだ。弾劾案が憲裁に渡ったのだから、慎重に手続きにのっとって決定を待つことはできないのか。茶山のような先覚者であれば、この無法無礼を何と言うだろうか。

李漢洙(イ・ハンス)記者

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