コラム
福島原発の町・富岡町で過ごした一夜【朝鮮日報東京支局長コラム】
今月初め、日本人の知人は「福島原発に取材に行くのはいいけれど、わざわざ富岡町に一晩泊まる必要はないんじゃない?」とアドバイスをくれた。「どうして?」と尋ねると、知人は返答に窮していた。「福島原発はもう安全だ」という日本人でさえも、原発の隣町に泊まるとなると躊躇するようだった。富岡町は福島第1原発と第2原発の間にある原発の町だ。
今月6日、2年ぶりに福島原発を訪れた。当時と違うのは宿泊した場所だ。2年前は取材を主管したフォーリン・プレスセンター・ジャパンが福島市内に宿を取った。当時は福島市が原発に近いものと思っていたが、全く違っていた。車で1時間以上離れた遠い場所に宿を確保していたのだ。
本紙単独で訪れた今回は、福島原発の入り口となる「東京電力廃炉資料館」のある富岡町に宿泊した。5日の夜に到着した無人駅「富岡駅」の駅舎には放射線量を示す電光掲示板があった。0.062マイクロシーベルトと表示されていた。レントゲン撮影よりもはるかに低い線量だった。駅前にある唯一の居酒屋は10席もない小さな規模だったが、店内は満席だった。
13年前、東日本巨大地震の時に最大21メートルの津波が押し寄せた富岡町は「ゴーストタウン」ではなかった。福島原発で「炉心溶融(メルトダウン)」事故が起きた時、町の人々は全員故郷を離れざるを得ず、現在も一部地域は放射能にさらされるリスクが高いため「帰還困難区域」になっている。事故の前まで1万6000人だった人口は、現在は約2000人にすぎない。帰郷を諦めた住民も少なくない。朝、海岸線に沿って30分以上歩いてみたが、誰ともすれ違わなかった。
しかし、ホテルやスーパー、銀行、居酒屋などが一つ、また一つと運営を再開している。銀行が戻ってきたのは2017年だったという。日本は2051年までの計画で8兆円を投じて福島原発の廃炉を進めている。880トンに達する核燃料の残骸(デブリ)を全て回収し、安全に原発を閉鎖するというのだ。実はこれは意外な選択だ。1980年代に起きたチェルノブイリ原発事故では、旧ソ連は容易な道を選んだ。周辺30キロ圏の住民37万人を移住させ、事故のあった原子炉にコンクリートを注いで密封した。チェルノブイリ原発周辺の土地を完全に捨てたのだ。
日本は諦めない道を選んだ。前例がないだけに、無謀な挑戦といえるかもしれない。日本の各メディアも「2051年までの福島原発の廃炉は不可能」「溶けた核燃料を全て処理するのに100年以上かかるだろう」などと報じた。東京電力の関係者は「被ばくのリスクがあるため全ての作業を遠隔操作ロボットで進めている。誰もやったことのない作業なので、現実的に廃炉が難しいということは誰よりもよく分かっている」としながらも「だからといって廃炉を諦めることはできないじゃないですか」と話した。事故が起きた原発の廃炉は、原発と共存しなければならない人類が一度は絶対に実現しなければならない課題だ。同じ時代を生きる地球人として、日本の廃炉が成功することを願っている。
成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長