▲1907年8月10日、フランスの「イリュストラシオン」誌に載った銃殺刑の写真

■歪曲の始まり、国史編さん委

 原本の写真からも当時の法律的環境からも、写真の中で処刑された人々は雑犯だ。この面々を義兵だと断定したソウル市や、解放後これまで疑いなしに義兵だと主張してきた韓国の国史学界には、真実が何であるかを調べる義務がある。解放後、この写真を「日本軍による義兵処刑場面」だと最初に主張した国家機関は、国史編さん委員会(国編委)だった。国編委は1966年12月、単行本『韓国独立運動史2』にこの写真を載せて「1919年3月、市街で虐殺される万歳示威者」と説明した。写真の中に見える白笠姿の群集、バイラムの旅行日程と本が出た日付を比較してみると、1919年の万歳運動とは無関係な写真であるにもかかわらず、国編委は検証もなしに「三・一運動の犠牲者」と決め付けた。

 また、国編委の同書の同じページには、「1919年3月、日軍警によって虐殺される万歳示威者」という説明と共に、朝鮮人3人が銃殺される場面を収めた写真が載っている。だがこの写真もまた、1919年ではなく、フランスの雑誌「イリュストラシオン(L'illustration)」において1907年8月10日付で報じられた写真だ。同誌の記事には、銃殺刑が行われた場所は「全羅南道潭陽」だと記してある。日本軍の蛮行であることは明らかだが、平和的デモだった三・一万歳運動とは無関係だ(1907年8月10日付『L'illustration』90-94ページ)。

■歪曲の系譜

 1919年の三・一運動直後に米国で活動した欧米委員部(欧美委員部・欧美駐箚〈ちゅうさつ〉韓国委員会)が、「韓国での日本の残酷行為」という宣伝文書にこの写真を挿入した。欧米委員部は「国際映画サービス(International Film Service)」という業者から2ドル25セントで購入した、と明かした。欧米委員部は、「正当な軍事作戦」だという日本政府の主張を根拠がないと排斥し、これを三・一運動当時の蛮行だと主張した(『大韓民国臨時政府資料集』欧美委員部2、II、宣伝文献類2、フィラデルフィア通信部・韓国親友会発行文献3)。

 国編委はこれを、時期や事件についての検証なしに、1966年の書籍に掲載したのだ。同年出版された『慶南独立運動小史』(ピョン・ジソプ、サムヒョプ印刷社、1966年10月)でも、この写真と上の強盗処刑写真が「三・一運動関連の蛮行」と説明されている。臨政レベルで綿密な検証手続きもないまま作られた宣伝物が、歴史的事実として固まる契機になった。その後、『三・一運動50周年記念論集』(東亜日報社、1969)、在日韓国人学者・辛基秀(シン・ギス)の『韓日併合史』(原タイトルは『映像が語る「日韓併合」史 1875年-1945年』、1987年。韓国版はヌンピッ刊、2009年)をはじめとする韓国国内や海外の出版物で、この集団処刑写真が義兵の処刑場面として完全に固まってしまった。特に『韓日併合史』は、いちいち指摘し切れないほどに誤りが多い。

 このように、独立運動のための誇張あるいは扇動作業の結果物が、これまで検証なしに歴史的事実として断定され、ついには強盗や窃盗犯かもしれない人物をわけもわからず追悼する…というありさまになってしまったのだ。今、責任を負うのは誰か。李徳仁教授は語る。「いくら目的が正当でも手段が歪曲されていたら、その事実の正当性が半減したり色褪せたりすることは避けられない」。闘争も扇動も、事実(Fact)に基づいてこそ勝利できるものなのだ。

朴鍾仁(パク・チョンイン)記者

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