▲1904年3月15日、窃盗犯・強盗犯12人の集団処刑執行および名簿を報告した「司法稟報」/奎章閣韓国学研究院

■「独立軍義兵殉国先烈処刑像」の原本写真

 「独立軍義兵殉国先烈処刑像」では、集団絞首刑に処された韓服(韓国の伝統衣装)姿の人物7人が彫刻されている。丸太をごちゃごちゃと組んで作った処刑台から縄でつるされ、処刑された義兵たちの姿が淡々と描写されている。この場面もまた、モチーフになった写真が存在する。植民時代に日本の記念品店で流通した写真の一つだ。この写真では、追念塔のレリーフに登場するものと似た形の処刑台に、韓服姿の男たちがつるされている。合わせて12人で、まげを結った男の姿も見える。追念塔では、1)写真左側の4人中3人、2)右側の8人のうち左端の髪をそった人物と、まげを結って背中を見せている人物、胸をあらわにした人物を順序を入れ替えて彫刻し、3)柱の後方に重なって見える人物を一人の人物として彫刻し、これを「独立軍義兵殉国先烈処刑像」と命名した。だが、果たしてこれらの人物は「集団処刑された義兵」なのか。

■いつ撮影した写真なのか

 写真そのものに、彼らの正体を知る手がかりが隠されている。まず、この写真はがきの下端には、このように記されている。「韓国風俗:罪人の絞殺」。「韓国」とは、日本が大韓帝国を植民時代の朝鮮と区別して呼んでいた名称だ。この刑執行の時期は、日韓併合が行われた1910年よりも前であることは確実だ。

 さらに具体的に見てみよう。この写真は、1904年1月2日から1905年10月26日までの間に撮影された写真だ。期間を確定できるヒントは、背景に見える、白い服と白いカッ(成人男性がかぶる笠子帽)を着用した群衆だ。「白笠」と呼ばれた白いカッは、朝鮮王朝と大韓帝国において国葬時に一般民衆が着用していたものだ。国葬が行われたら1年間は、上下を問わず民は白笠を着用しなければならない。大韓帝国時代に国葬は2回あった。1904年1月2日、憲宗妃洪氏明憲太后が亡くなった(『高宗実録』1904年1月2日条)。その後1年間、大韓帝国皇民は全て白衣と白笠の着用が義務付けられた。この国葬が終わる2カ月前の1904年11月5日、皇太子の純宗妃閔氏が亡くなった(『高宗実録』1904年11月5日条)。そこで大韓帝国の人々は、この日から陰暦で1年が経過した1905年10月26日まで、また白笠と白衣を着用した。従ってこの写真は、1904年1月2日から1905年10月26日までの間に撮影されたもので、刑執行もまたその期間にあった。

■集団処刑された窃盗犯・強盗犯

 ソウル特別市は、この場面を日本軍による義兵処刑場面だと断定し、追念塔に彫刻した。果たしてそうだろうか。別の角度から撮影した写真がある。下の写真は、1906年から07年にかけて朝鮮と満州、日本を旅行したフランスの武官レオ・バイラムの紀行『小さな日本が大きくなった』(Petit Jap deviendra grand、ベルジェ・ルブロー、パリ、1908)の75ページに載っている。

 処刑台の周辺に立っている刑吏たちもまた、白笠と白衣を着用している。朝鮮人だ。処刑場のどこにも日本軍の姿は見えない。バイラムは「数ページの歴史」と題した章において、日本の侵略部分にこの写真を載せて「日帝の弾圧-絞首刑」と説明した。だが、この写真はバイラム本人が撮影したものではなく、購入した写真だ。バイラムは1906年に大韓帝国へ入国したが、このときは既に国葬が終わっており、通常の服装に戻った後だった。また旧韓末以来、朝鮮の風俗を撮影した写真が印画やはがきとして大量に作られ、日本や西欧で流通した。バイラムの写真の説明は、購入の過程で生じた錯誤あるいは本人の先入観である可能性が高い。当時、朝鮮あるいは大韓帝国を「未開の国」と見なす日本が無作為に作った写真を、西洋メディアが検証もなしに引用し、記事の内容に合わせて勝手に説明を付けたせいだ。

 追念塔のレリーフ歪曲(わいきょく)を追跡してきた釜山科技大警察行政学科の李徳仁(イ・ドクイン)教授は「1909年7月12日に司法権が統監府に移るまで、司法権は大韓帝国政府が行使していた」と語った。日本が出版した各種の写真集では、義兵討伐作戦時に逮捕したり処刑したりした朝鮮人の写真については、自分たちがやったということを隠さずに記録していた。

 だとすると、写真に登場する者たちは誰なのか。強盗団、泥棒たちである可能性が高い。死刑は国王の許可事項だ。実録によると、1904年1月2日から1905年10月26日までの国葬期間中、国王の高宗が絞首刑を許可した人間は合わせて144人。高宗は、1904年2月7日に「殺人強盗犯」42人、3月9日に「殺人犯」14人と「強盗犯」6人、「窃盗犯」10人、3月15日に「強盗犯」など27人、1905年7月22日に「強盗、窃盗、殺人犯」45人に対し絞首刑を允許(いんきょ)した(『高宗実録』の各日付条)。このうち、写真に出て来る罪人12人と数字が一致する刑執行は、1904年3月15日の27人のうち、漢城裁判所管轄の罪囚12人だ。

 大韓帝国の司法記録である「司法稟(ひん)報」報告書1904年(光武8年)3月17日付によると、罪人の名は任福万(イム・ボクマン)、車善益(チャ・ソンイク)、李致景(イ・チギョン)と崔大有(チェ・デユ)、金学俊(キム・ハクチュン)、韓士秀(ハン・サス)、徐允明(ソ・ユンミョン)、李宝景(イ・ボムギョン)、金竜根(キム・ヨングン)、朴千万(パク・チョンマン)、千応沢(チェ・ウンテク)、鄭竜基(チョン・ヨンギ)の計12人だ。最初の3人は暴力を伴う常習窃盗犯で、残る9人は強盗団だった。執行者は漢城府裁判所検事の尹邦鉉(ユン・バンヒョン)、報告の受領者は大韓帝国法部大臣の李址鎔(イ・シヨン)だった。(『司法稟報』〈乙〉43冊56、奎章閣韓国学研究院)

 この面々は3月15日の夜9時(下午九点鐘)に漢城監獄(監獄署)の絞首台で処刑し、翌日その遺体が群衆に公開展示された後、人々に埋葬させた(使之出埋)。他の絞首刑の罪囚らはすぐに埋葬(即埋)処理されたが、この面々は即時の埋葬はされなかった。処刑台の木の柱の近くに、囚人の遺体を運んできたチゲ(背負い子〈しょいこ〉)が見える。

 しかも、3日前の1904年3月12日、大韓帝国の法部(省に相当)から「白昼においても略奪や殺人はひんぱんに起きているので、特別に厳しく取り締まり、処罰せよ」という特命が全国に下されていた(1904年3月12日付『訓令十三道六港一牧裁判所件』。法部『訓指起案』『起案』第11冊〈奎17277の5〉。都冕会〈ト・ミョンフェ〉『1895-1908年間のソウルの犯罪様相と政府の刑事政策』より再引用。『歴史と現実』74、韓国歴史研究会、2009)。この雑犯12人は、そのテストケースになったと推定される。乙巳条約の1年後、大韓帝国の外交はもちろん内治まで実質的に掌握してしまった統監府は「残忍で効果もない公開処刑を廃止せよ」と大韓帝国法部に勧告してもいる(1906年8月26日付『皇城新聞』)。

朴鍾仁(パク・チョンイン)記者

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