▲ソウル市ヒョンジョ洞の西大門独立公園にある殉国先烈追念塔。主な独立運動の八つの場面を、塔の裏側の花こう岩に彫刻した。/朴鍾仁記者

 ソウル市西大門区ヒョンジョ洞の西大門独立公園には「殉国先烈追念塔」がある。毎年、「殉国先烈の日」の11月17日になると、塔の前で記念式典が開かれる。塔は1992年の光復節に、ソウル市が設置した。

 塔の裏側に設置された大型の花こう岩には「独立闘争の歴史的活動像」を形象化した八つのレリーフが彫刻されている。ところが、これらのレリーフのうちの一つは、独立闘争であったかどうか疑わしい場面が彫刻されている。庶民を苦しめた雑犯の処刑場面とそっくりなのだ。左から3番目、「独立軍義兵殉国先烈処刑像」は、義兵ではなく、大韓帝国時代に「常習窃盗」と「集団強盗」に手を染めた「強力犯処刑場面」とほとんど同一だ。それ故に、塔が設置された1992年以来32年間、韓国の市民は、民衆を恐怖の中へ追いやった雑犯たちを追悼し、その犯罪行脚をたたえてきた可能性が高い。韓国の学界や政界が正確な史料検証もなしに独立運動史を記録してきた慣行のせいだ。

■殉国先烈の記念塔

 「殉国先烈」とは「国権被奪から1945年8月14日までに独立運動を行って殉国した人」を意味する(『独立有功者礼遇に関する法律』4条)。殉国先烈記念日は、1939年に大韓民国臨時政府が乙巳(いっし)条約(1905年の第2次日韓協約)締結日の11月17日を「殉国先烈共同記念日」に定めて以来、建国後も記念してきた日だ。

 1992年8月15日、ソウル市は、殉国先烈をたたえる殉国先烈追念塔の除幕を行った。高さ22.3メートルの塔には14道を意味する14の太極旗が刻まれている。裏側の幅40メートルの花こう岩には、殉国先烈活動像の浮き彫りが施されている。合わせて八つの活動像は「抗日義兵武装像」「尹奉吉(ユン・ボンギル)・李奉昌(イ・ボンチャン)烈士象徴像」「独立軍義兵殉国先烈処刑像」「柳寛順(ユ・グァンスン)烈士運動像」「三・一独立万歳像」「安重根(アン・ジュングン)義士伊藤博文狙撃像」「殉国先烈義兵逮捕処刑像」「青山里戦闘像」だ。

■独立運動を象徴する各レリーフ

 左端には、義兵活動の様子を撮影した唯一の写真である「楊平義兵写真」をモチーフにした抗日義兵武装像が彫ってある。1907年9月に、「丁未義兵」の活動を記録した英デーリー・メール紙記者フレデリック・アーサー・マッケンジー(Frederick Arthur MacKenzie)が撮影した写真だ。

 マッケンジーは、義兵との対面をこのように記した。「彼らはいずれも、十八歳から二十六歳くらいまでの青年であった。(中略)六人の者がそれぞれちがった五種類の武器を持っていたが、その一つとしてろくなものはなかった。一人は、もっとも古い型の火縄銃として知られている昔の朝鮮の先込め銃を誇らしげに持っていた。(中略)第二の男は古い朝鮮軍の銃を持っていたが、まったく旧式で、その時代の悪い見本みたいなしろものだった。第三の男もまた同じであった。もう一人は、ちっぽけな先込め銃を持っていたが、それは、父親が、可愛(かわい)がっている十歳くらいの子供にやるような、無害なことうけあいというしろものであった。さらにもう一人は、馬上用の拳銃を持ち小銃弾倉をつけていた。三丁の銃には中国のマークがついていた。それらの銃はいずれも、古錆(さび)がついて腐蝕したものであった」(F・A・マッケンジー著、渡部学訳注『朝鮮の悲劇』〈東洋文庫222〉199-200ページ)。レリーフでは、写真に登場する義兵13人のうち印象的な人物7人を選び出して彫刻した。大韓帝国の軍服を着た指揮官や、子どもっぽい少年兵まで、マッケンジーの見た義兵たちの姿が刻まれている。

 李奉昌・尹奉吉の行動と柳寛順、三・一万歳、安重根、義兵逮捕と処刑、青山里の戦いまで、他のレリーフも当該人物や事件を容易に連想できる場面で構成されている。問題は左から3番目、「独立軍義兵殉国先烈処刑像」だ。この作品では「集団絞首刑に遭った義兵たち」が彫刻されている。

朴鍾仁(パク・チョンイン)記者

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