▲韓国の駐日大使公邸が12日、大使館の用地を韓国政府に寄贈した実業家、徐甲虎(ソ・ガプホ、1915~1976)氏(邦林紡績創業者)の雅号にちなみ、「東鳴斎」と命名された。大使官邸で開かれた命名式に出席した尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日韓国大使(左から2番目)と故人の遺族らが除幕式の後、記念撮影をしている/聯合ニュース

 東京の富裕層が住む港区麻布は外交の中心地でもある。フランス、ドイツ、イタリア、中国、ロシアの大使館がある。麻布に隣接する赤坂には米国、カナダの大使館がある。

 19世紀から20世紀初めにかけ、アジアに進出した世界列強は東京の麻布の上に地図を描いた。本来麻布は幕府時代に大名が屋敷を置いたところだ。明治政権が大名をなくすと、西欧列強にとっては「警備に有利で広い大名屋敷」が最高の立地だった。

 1965年にようやく日本と国交を結んだ韓国の大使館が麻布にあるのは実は意外なことだ。強国の大使館に劣らない面積8264平方メートルの広大な敷地がある上、日本の第4・6代首相である松方正義の邸宅だった土地であり、大名屋敷よりも格上だ。敷地の推定価格は現在1兆ウォン前後で、59年前も値千金の土地だった。当時、1人当たり国内総生産(GDP)が1300ドルにも満たなかった弱小国が購入するのは難しかった。

 何故なのか。その答えは12日に韓国大使公邸で行われた異例の除幕式にある。公邸は「東明斎」と命名された。邦林紡績の創業者である故・徐甲虎(ソ・ガプホ)氏(日本名・阪本栄一)の雅号だ。日本による植民地支配下の1915年、慶尚南道蔚州郡に生まれ、14歳で日本に来た当時は飴を売り古紙を集めて資金を貯めた。1948年に設立した紡織会社が急成長し、1950年代に「最も収入を上げる在日韓国人」になった。徐氏が1951年に銀行の資金を借りて敷地を買い入れ、5年間に元利を返済した後、1962年に韓国政府に寄付した。

 残念なことに、徐氏が日本に設立した阪本紡績は1974年のオイルショックで経営が揺らいだ。日本の金融機関が融資を回収すると、不渡りを出した。急な資金が必要で韓国政府に支援を求めたが、そっぽを向かれた。徐氏は2年後、ソウルで61歳で死去した。

 徐氏を覚えている韓国人はほとんどいないはずだ。忘れられていた名前を公邸に付けたのは、韓国の尹徳敏(ユン・ドクミン)駐日大使だ。尹大使は「困難な時に我々を助けた人物を記憶することができなければ、今後誰が韓国を助けるだろうか」と述べ、徐氏の子孫らとも会った。

 それでも、徐会長の崇高な意思を振り返るにはまだ不十分だ。依然在日韓国大使館の徐会長資料館は隙間だらけだ。例えば朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領と徐氏がポーズを取っている写真は「撮影時期不詳」だ。韓国大使館は本国の大統領記録館、外交史料館、在外同胞庁などあちこちに徐氏の関連資料を求めたが、9カ月たっても返事がない。徐氏の孫娘は「韓国に片思いした祖父に関する資料集めを手伝ってほしい」と訴えている。

 生前の徐氏は「祖国が恥ずかしい思いをしてはならない」と話していたという。国をようやく取り戻した時代、悲しみを共に耐え抜こうと在日韓国人を励ます一言だったのだろう。「豪商」徐甲虎を記憶する作業に韓国政府はもっと積極的でなければならない。

東京=成好哲(ソン・ホチョル)支局長

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