▲愛読する月刊誌を手に取る佐藤ヒデさん。/岩手県=成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長

 2011年3月11日、日本列島の東北地方である岩手県陸前高田市を最大で高さ17メートルに上る津波が襲った。日本の観測史上最大級となったマグニチュード9.0の東日本巨大地震だ。人口2万4000人余りの小都市で約1800人の住民が津波に流され、死亡し、行方不明となった。陸前高田市は、最もひどい津波被害を受けた日本の町となった。

 同市に住んでいた佐藤ヒデさんは当時81歳。地震直後にはだしで飛び出し、一命は取り留めたものの、津波で親戚7人を失った。暗闇に突き落とされたかのような苦痛を味わったという。佐藤さんは、避難生活の中で次第に気を取り直し、手縫いで人形を作り始めた。人形を作って家族を失った避難民たちにプレゼントした。一つ一つ縫ってプレゼントした人形は、今では7000個以上になる。

 本紙は5月30日、岩手県で佐藤さんに会って直接インタビューを行った。佐藤さんを訪ねた理由は「健康の秘訣(ひけつ)」について聞くためだった。93歳の佐藤さんは昨年9月の健康診断で、基礎代謝量で測定する体内年齢が36歳であることが分かった。今年初め、佐藤さんにインタビューした日本の朝日新聞は「高齢者の顔は老化による骨密度の低下のため、頬骨が現れ、目がくぼんでいくが、佐藤さんは肌がぴんと張っている。驚異的だ」と報じた。三食の食事を自分で作り、肉や魚のようなたんぱく質は常に欠かさず、野菜や果物が大好きで、湯舟に漬かっては水中で500回蹴る運動を行い、暇な時は雑誌を読むなど、佐藤さんの食習慣や生活を通じた運動は99歳まで元気に暮らすためのノウハウそのものだった。

 インタビューが終わって佐藤さんの家を出て、本当の秘訣は彼女の笑顔にあるのではないかと思った。2時間のインタビューの間、絶えず話をする佐藤さんの顔には、笑みが絶えなかった。実は、紆余(うよ)曲折の人生だったはずだ。1930年、7人兄弟の6番目として生まれた佐藤さんは、父親が交通事故で早くに他界したため、幼い頃から姉たちと一緒にアイスクリームを売って生計を立ててきた。米軍の爆撃で廃虚と化した戦後、東京で草で作ったおかゆで延命した。夫は転勤の多い金融機関に勤めていたため、3人の子どもを連れて40回も引っ越した。見知らぬ都市に引っ越すたびに近所の人々に自分からあいさつし、毎日のように家の前の道路をきれいに掃いた。60代で死別してからは一人暮らしをしてきたが、東日本巨大地震で家が崩壊した。現在は部屋一つの公営賃貸マンションに住んでいる。

 佐藤さんは自分のことを「もともと楽天家」とし「津波の直後はとても大変だったが、それでも『幸福は私のすぐそばにある』と常に信じてきた」という。93歳の今でも、かつて母がそうだったようにつばき油を髪に塗るという佐藤さん。「100歳になったらまたインタビューしましょう」という記者の言葉に、もちろんと言わんばかりに「そうしましょう」と笑顔で答えた。

東京=成好哲(ソン・ホチョル)東京支局長

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