▲イラスト=UTOIMAGE

 スイス・ベルン州のウンターバッハ(Unterbäch)は海抜1100メートルのアルプス渓谷に位置する小さな村だ。人口は500人に満たない。

 2018年に北京から来た中国人のワン・ジン、リン・ジン氏夫妻がスイス・モントルーの名門ホテル学校、スイス・ホテル経営専門学校(SHMS)を卒業した息子のワン・ダーウェイ氏の名義で、この村にある客室数8室の山荘「ホテル・レスリー」を80万スイスフラン(約1億3800万円)で購入した。1903年に建てられ、かなり古いが、夏にはトレッキング客、冬にはスキー客がこの村を好んで訪れる点を考えれば、良い投資のように見えた。ワン氏夫妻は眺めが良い最上階のスイートルームに住んでいる。

 ホテル・レスリーの正面には探偵小説の主人公シャーロック・ホームズが宿敵との決闘で一緒に落ちて死んだライヘンバッハの滝と万年雪を戴くアルプスの山々がまるで絵画のように広がっている(作家アーサー・コナン・ドイルは読者たちの不満の声を受け、後続作品でホームズを蘇らせた)。

 問題はこの山荘の裏側の景色だ。マイリンゲン空軍基地と接しており、軍用滑走路が一望できる。軍の基地なのにろくにフェンスも建てられておらず、村内の道路も東西南北にこの滑走路を通り、軍用機が離着陸する際には信号機で車両を規制している。

 スイスは2028年、最先端ステルス戦闘機である米国のステルス多用途戦闘機「F-35ライトニングII」を36機を同基地に配備する予定だ。米国とスイスは2018年からF-35が配置される滑走路を巡って交渉し、2019年にF-35戦闘機がこの滑走路で離着陸試験を行った。同じ時期にワン氏夫妻が「ホテル・レスリー」を購入したのだ。

 スイスの日刊紙ターゲス・アンツァイガー、ブリックとスイス放送協会(RTS)、米ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)は最近、「米英情報当局は中国人家族による山荘購入が実はF-35の機密を探り出そうとする中国の長期的な投資だったとみている」と報道した。

 ワン氏家族には実は不審な点がないわけではなかった。WSJによると、山荘を購入したワン氏夫妻は、スイス式料理を学ぶことにはあまり関心がなかった。また、最も混雑しているクリスマスシーズンをはじめ、長期間山荘を離れ、北京に戻ることもあった。村の人々は「パンを自分で焼かず、スーパーマーケットで買ってくる」「エリートホテル経営学校を卒業した息子が熱い牛乳をコーヒーに混ぜるスイス式カフェオレを作らず、冷たい牛乳をコーヒーに注いでいる」となどと評した。

 この山荘の所有者となったワン・ジン氏は洗練されたドイツ語を駆使した。ドイツ(西ドイツ)とスイスで外交官を務めた父親のおかげでドイツ語を学んだと住民に説明した。

 ワン・ジンの幼少期に、両国で中国の外交官として勤務したワン(王)という姓の人物は4人いる。2人はスイスで武官として勤務。西ドイツに勤務した外交官2人は1人が数カ月で離任し、1人は中国官営メディアの元記者で、後に大使になった。

 WSJは「1950年代から60年代にかけ、中立国スイスは欧州のスパイ活動の中心地であり、多くの中国外交官はスパイだった」と報じた。中国の初代駐スイス大使、馮鉉氏は後に情報・保安機関である中国共産党中央委員会調査部(国家安全部の前身)の副部長になった。

 ワン·ジン夫妻がホテル・レスリーを購入する当時、中国国家安全部のスイス国内におけるスパイ活動は最高潮に達した。スイス連邦情報機関(NDB)は、ロシアよりも多くの中国のスパイが科学者、記者、事業家に偽装して活動しているという報告書を出している。2020年には中国人従業員が新たにこの山荘に来て、永住権もなしに就労した。

 米国は約17兆ドル(約2675兆円)をかけて開発した「現代空中戦の帝王」F-35の機密保持を徹底している。戦闘機が収集した情報を処理する操縦士ヘルメットをはじめ、機体のほぼ全てがトップシークレットだ。米国ではジェットエンジンを撮影することも禁止されているという。

 中国は過去約10年間にわたり、F-35に採用された先端技術の入手に必死だった。2015年には中国のハッカーがF-35の製造元である米防衛大手ロッキード・マーチンからテラバイト級のデータを盗み出した事実がその後明らかになった。中国は2017年、F-35の技術を一部コピーしたと推定される初の第5世代ステルス戦闘機J-20(殲-20)を披露した。

 このため、米情報当局はF-35が配置されるマイリンゲン基地に隣接するホテルを購入した問題の中国人夫妻の観察を続けた。そして数年間にわたり、スイスの情報当局にその事実を知らせたが、北大西洋条約機構(NATO)加盟国でも欧州連合(EU)加盟国でもない中立国スイスの反応は鈍かった。スイスの情報機関の中国担当要員は5人にすぎなかった。

 結局、米国は昨年、スイスに対し、「マイリンゲン基地周辺の保安が大幅に強化されるまではF-35を配備できない」と通告した。

 同年7月26日、NDBの要員がホテル・レスリーを捜索し、中国人家族3人は連行され取り調べを受けた。しかし、スパイ容疑は立証できず、観光ビザでホテルで就労した容疑で5400ドルの罰金を科すにとどまった。ホテルの玄関には「閉鎖」という紙が張られた。

 WSJは「その後行方が明らかになっていないワン・ジン氏家族3人は現在、中国の新興富裕層が住む北京北郊の『ドラゴンビラ』に住んでいる」と報じた。北朝鮮の金正日(キム・ジョンイル)総書記の長男で、2017年にクアラルンプール空港で暗殺された金正男(キム・ジョンナム)氏が住んでいた場所でもある。しかし、息子のワン・ダーウェイ氏はターゲス・アンツァイガーに対し、「スパイ云々はフェイクニュースであり、再びスイスに戻るつもりだ」と話した。

 スイスの情報要員と警察による捜索から間もなくして、インターネットには問題のホテルの販売広告が掲載された。希望売却価格は180万ドル。あるスイス人が購入意向を表明したが、銀行融資を受けることができなかった。

 ワン氏夫妻によるホテル購入は、10年先を見据えて最先端戦闘機F-35の機密を入手しようとする中国スパイ機関の投資だったのだろうか。ワシントンの中国大使館はWSJに対し、「米国が根拠もなく中国のイメージを貶めようとしている」と述べた。村人の意見も分かれる。住民の多くは「米国が過度に干渉している」とWSJに語った。

 明らかなことは、F-35をめぐる米中軍事諜報戦争がスイスのアルプスの山奥にまで広がったということだ。

 今年1月、ウンターバッハ飛行場委員会は「ホテル・レスリー」の新しいオーナーの通知を受けた。購入者はスイス軍だった。購入条件は公表されていない。

イ・チョルミン記者

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