▲李東建プバン・テクロス会長

李東建プバン・テクロス会長、『少年皇族の見た戦争』韓国版を出版

 「実にまれなことだ」。2008年に国際ロータリークラブ会長として米国シカゴに行っていた李東建(イ・ドンゴン)プバン・テクロス会長 (86)は、日本の東京南部を管轄するロータリー地区の次期総裁と会って感嘆した。大勢の外国人と対面してきたが、その人物ほど品格があり、礼儀正しい日本人とは初めて会ったという。

 調べてみると、昭和天皇の義理のおいである旧皇族の久邇邦昭さん(95)だった。英親王妃の故・李方子さんとは5親等の親類同士だ。だが「物静かだが温かい彼の姿勢や風貌から、日本の貴族の傲慢(ごうまん)さは見いだせなかった」という。

 最近、李会長は、2015年に久邇さんが執筆した自叙伝『少年皇族の見た戦争 宮家に生まれ一市民として生きた我が生涯』韓国語版(コヨアチム刊)を出版した。翻訳と出版に伴う諸般の費用は私費で充当し、本に編者として名を載せた。

 当然ながら、久邇さんは「金スプーン」の生まれなので裕福な環境で育った。夕方になると家族全員が2階の書斎に集まり、SPレコードをかけて、幸せな表情でクラシック音楽を聞いた。カモ肉や鶏肉を食べ終えると、女中たちが水道水の出る部屋で皿洗いをした。しかし、皇族の長男は必ず軍人にならねばならないので1945年4月に16歳で海軍兵学校に入り、その4カ月後の同年8月に日帝は敗亡した。

 そして1947年、連合国軍最高司令部(GHQ)は、天皇一家と天皇の弟一家を除く皇族の皇籍をはく奪した。久邇さんは「平民」になった。海運会社の総務課に面接を受けて入社し、欧州などで海運業関連の社会人生活を送るなど、旧皇族の立場からは「平凡な」暮らしをした。退職後は伊勢神宮の大宮司を務めるなど、神道をはじめとする日本文化に深い愛着を持っている。

 久邇さんは著書で、多くのページを割いて日本の戦争責任について一つ一つ批判し、反戦の声を上げた。「いわゆるA級戦犯、私は個人的に知っている人物はいないが、人格的に優れた人物もいたかもしれない。しかし結局、開戦を決定したという意味から、当然罪を問うことになるべきだろう」

 靖国神社にA級戦犯を合祀(ごうし)したことについて、残念な思いをあらわにした久邇さんは「日本人の自己主張の軟弱であること、周りを見て結局は適当にごまかしてしまう特性、国民全体の群集心理、言論の扇動、軽挙妄動する癖など、日本の気質文化について厳しく反省すべき」とし、戦争に反対できなかった国民に対しても厳しく指摘している。

 「植民支配でアジアの人々を苦しめた点を自覚し、それについて相当な措置を取るべきだろう」という言葉も忘れない。「被害をもたらした事実については謙虚に受け入れ、常識に合う賠償をして発展的な相互関係を構築することをなぜ(韓日関係の)初期段階でやらなかったのだろうか?」と問う。ただし、昭和天皇を「ついに内閣の最終決定に反対しなかったが、戦争を避けようと努力した平和主義者」だったと、多少擁護するような一面を見せるところは、皇族出身の限界を感じさせる。

 韓国版を編集した李東建会長は、母体企業の釜山紡織を、生活家電企業の「クチェン」に続いて水処理先導企業のプバン・テクロスに育て上げた実業家だ。社会福祉共同募金会の会長も務めた李会長は「物を売る商売人の生涯と他人を助ける社会奉仕者の生涯を、共に歩んできた」と語った。「こうした時節に、6・25を経験しました。安康の戦いの砲声が生々しく聞こえていた慶州・良洞村で育ち、『戦争は決して起きてはならない』という共感があります」。平素から歴史に大いに関心を持っていた李会長のオフィスの本棚には、劇作家の辛奉承(シン・ボンスン)が1985年に書いた全48巻の『朝鮮王朝500年』があるのも見えた。

 久邇邦昭さんの著書を韓国国内で出版した理由については「二度と戦争が起きてはならないということ、そして決して全ての日本人が戦争に賛成しているわけではないということを韓国の読者に知らせたかったから」と語った。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

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