▲ノ・ジョンテ経済社会研究院専門委員・哲学

 外信コラムを読んでいると、たびたび目にする表現がある。「何でもできる魔法のつえが与えられたとしたら、何に使うか」といった質問だ。現実的には達成が困難で不可能としか思えないが、それでもなければならない物とは一体何だろうか、想像の力を借りてでも共有したい議題を強調するための話法だ。

 急にこのような話を持ち出すには理由がある。まさに「平和ヌリ特別自治道」のためだ(ヌリは「世界」「世の中」の意)。5月1日、キム・ドンヨン京畿道知事が発表した「京畿北道」の新しい名前を公募した結果だ。その笑うに笑えない喜劇を見て、筆者の望みは念願に変わった。もし私に魔法のつえがあるならば、地方自治制を廃止するだろう。

 すぐさま帰ってくると思われる反論。地方自治制は民主主義の礎ではないか。米国、ドイツ、日本などの民主主義先進国を見ても、皆地方自治制を忠実に守っているではないか。これは1987年の直接選挙制改憲当時、地方自治制を推し進めた表面上の理由でもある。

 しかし、こうした主張は原因と結果を逆さに見るものだ。米国と日本の場合を考えてみれば分かるように、地方自治先進国は近代国家建設以前から各地方が別個の国(state、国)を形成して暮らしてきた文化的、歴史的、地理的脈略を保っている。地域住民が自らの仕事を自ら処理するものの、中央政府が必要な案件で連邦を成す「上向き志向の地方自治」が誕生した理由だ。

 一方、われわれは太祖王建が後三国を統一して以降、これまでの千年間、中央集権体制で生きてきた。日本の植民地統治および解放と分断を経験した後も、中央集権体制はそのまま維持された。こうした歴史的脈略の中で、韓国は各地域に見合った産業を国家が特定して育成する輸出主導の経済体制を整え、今日に至っている。先進国の地方自治とは違って、韓国の地方自治は「国家主導型の地方自治」、「下向き志向の地方自治」といった矛盾に陥るほかないのだ。

 韓国の地方自治は、日本や米国の地方自治とは全く違った単語なのだ。各地域が自らの仕事を自分の予算内で処理するという意味ではない。中央の予算を獲得するために無限に競争を繰り広げるといった意味として受け止めなければならない。選挙シーズンごとに予備妥当性調査を無視したありとあらゆる議題と特別法があふれ出る理由、こうして設置された数多くの空港では飛行機が離着陸する代わりに唐辛子を乾かしている理由、直線で走りながら本当に必要な「拠点」にだけ止まるべきKTXが、五松分岐点であえて方向を変え下って行くなどの理由だ。

 地方自治制は大韓民国を「ワンチーム」ではないかのように引き裂いている。いわゆる「豊かな町」に住む人々は、私が納める税金をあの「貧しい町」の人々のために使うと言って不満を抱く。逆に「貧しい町」の人々はお前たちが恩恵を独り占めして「豊かな町」になったのではないかとかみ付く。必要以上に大きな市役所、道庁、区役所を建てて予算を浪費するのは、こうした心理の反映だ。互いに茶わんをちらつかせながら、他人に与えるのがもったいないため、私が全部食べてしまわなければならないというノルブ(フンブとノルブの昔話)の心理で国が回っているわけだ。

 他の国がどうであれ、韓国の地方自治制はこうした制度だ。もはや誰も国家レベルのアジェンダ(政策課題)を思い浮かべたり推し進めたりすることはできない。トマス・ホッブズの表現を借りれば「地方自治体による地方自治体に対する闘争」だけが残った。さらに、そのような「国家失踪」は「地方消滅」を加速化させている。

 多くの専門家が指摘しているように、地方消滅を防ぎ人口を分散して出産率を回復するためには、ソウルや首都圏とは別のメガシティー広域圏を造っていかなければならない。地域別の産業プラン、中小都市の統廃合、インフラの再構築をしても実現できるかどうかといった、第2の建国に次ぐ大事業である。地方税収入と支出を巡る葛藤が「京畿北道」の分道へと進み、その上で特定の年齢層の政治勢力が北朝鮮に向けた奇怪な執着を込めて「平和ヌリ特別自治道」というおかしな名前を付けようとするこの国で、果たしてそれが可能なのか。

 地方自治制が必ずしも悪いわけではない。長い軍事政権時代を終え、民主化の第一歩を踏み出す過程で世論の上向き志向の窓口的役割をある程度果たしてきた。しかし、今は全国民がスマートフォンを持ち歩く時代だ。今、私たちに必要なのは、何なのかも分からない自治体、基礎議会(市・郡・区議会)議員の選挙などではない。低成長・高齢化の時代を突破できる慎重かつ大胆な国家的プランが切実に望まれる。全国民が一丸となって魔法のつえを振りかざし、地方自治制の構造的問題を解決できることを願うだけだ。

ノ・ジョンテ経済社会研究院専門委員・哲学

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