▲1954年8月24日、最貧国・大韓民国の李承晩大統領がニューヨーク・マンハッタンの「英雄たちの谷(Canyon of Heroes)」でパレードをしている様子。/キム・ドクヨン監督提供

 「不義を見て傍観しない100万学徒と国民がいるのだから、私はどれほど幸せか」。自分を辞めさせたデモ隊についてこう語る「民主主義者」李承晩(イ・スンマン)は、これまで、石つぶてで作った墓に葬られた状態だった。映画『建国戦争』は、左派の「李承晩悪魔化」を正す作品だ。

 だが、おかしくないだろうか。どういうわけで、数千万の国民が50年以上も「ガスライティング(心理的虐待の一種)」されたのか。左派の力だけで可能なことなのか。

 李承晩の養子、李仁秀(イ・インス)博士はかつて「月刊朝鮮」誌にこう語った。「政府は(国葬の代わりに)国民葬へと縮小して、4・19の学生らの反発をなだめようとしたんです。建国大統領として遇してもらえない中で、ののしられるいわれはないと考えて家族葬にこだわりました」。1965年7月27日の李承晩の葬儀には、朴正煕(パク・チョンヒ)大統領に代わって丁一権(チョン・イルグォン)首相が参列し、詩人の鷺山・李殷相(イ・ウンサン)が代書した大統領の弔辞を読み上げた。

 逆に、金鍾泌(キム・ジョンピル)回顧録にはこんな記述がある。「朴議長は李承晩博士を建国の父と考えていた。適当な時期にソウルに迎える考えを持っていた。62年末だった」

 朴正煕大統領の考えは分からないが、あのころは教科書はもちろん大衆文化も全て、李承晩をおとしめた。67年のラジオ政治ドラマ『うまくいきます』以来、『光復20年』『激動30年』、全斗煥(チョン・ドゥファン)大統領時代のMBC放送『第1共和国』などで描かれた李承晩は「米国から戻ってきて、世の物情というものを知らなかった老いた大統領」だ。『うまくいきます』の原作者、韓雲史(ハン・ウンサ)は「ぬれぎぬで6カ月間もの監獄暮らしをさせられて、李承晩を痛い目に遭わせるために書き始めたが、後になって尊敬するようになった」と述べたが、尊敬は胸の内だけのことだったらしい。これまでは保守系の大統領も李承晩からは目を背けねばならないありさまで、放送局は「反論権」のない李承晩をめちゃくちゃにたたいた。

 そんな朴正煕も、李承晩と共に屈辱にさらされた。『親日人名辞典』を作った民族問題研究所が制作し、俳優クォン・ヘヒョがナレーションを担当したドキュメンタリー『100年戦争』(チョン・ジヨン監督)。李承晩を「ハワイのごろつき」、朴正煕を「スネーク・パク」と呼んであざけり、歪曲(わいきょく)した。

 2013年に放送通信委員会(放通委)は、このドキュメンタリーを放送した「市民放送RTV」に対し法定制裁措置を下した。RTVが不服を申し立てた裁判では、二審で放通委が勝った。ところが19年に大法院(最高裁に相当)がひっくり返した。「李承晩・朴正煕の業績に対する前向きな評価は既に主流的地位にあり、視聴者が制作した番組については放送事業者より緩和された基準を適用すべきである」。市民団体の事実歪曲はいいのか? 法服を着て詭弁(きべん)を弄(ろう)した大法官は金哉衡(キム・ジェヒョン)、パク・チョンファ、閔裕淑(ミン・ユスク)、金善洙(キム・ソンス)、盧貞姫(ノ・ジョンヒ)、金尚煥(キム・サンファン)、ここに大法院長・金命洙(キム・ミョンス)が1票を加え、7対6でフェイクニュースが勝った。

 本紙や、李栄薰(イ・ヨンフン)のような学者らが「李承晩再評価」を何度も試みたが、彼を「石つぶての墓」から引き出すことはできなかった。保守政治家やエリート層で「李承晩を尊敬する」と公言する人物はまれだ。胆が小さく怠惰で、損をするのを嫌がり、見ないふりをして放り出してしまう。保守は、欠陥の「欠」の字が出てきただけでもすぐに切り捨てる。『反日種族主義』の著者、李栄薰教授の研究室にやって来て「親日派××」と拳を振り回した勢力が、昨年には親北牧師の腕に隠しカメラを仕込んで大統領夫人を盗撮した。転向した運動圏(学生運動出身)で、韓国経済史を最も実証的に研究した右派学者・李栄薰が「ソウルの声」にたたかれたとき、保守はこっそりと彼を見捨てた。

 『建国戦争』のヒットで、左派フレームに屈服していた右派が覚醒している。「保守理論」を学んでみたいという人も多い。ここで、ドイツのマルティン・ニーメラー牧師の言葉をパロディーしてみたい。「彼らが李承晩を攻撃したとき、私は声を上げなかった。/左派が朴正煕を攻撃したとき、私は声を上げなかった。/彼らが私を攻撃したとき、私のために声を上げてくれる者は誰一人残っていなかった」

朴垠柱(パク・ウンジュ)記者

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