寄稿
いまだに韓国人の願いは統一なのか【寄稿】
韓国人の願いは統一なのか?
北朝鮮指導部の答えは、断固として「ノー」だ。昨年12月30日、北朝鮮の朝鮮労働党中央委全員会議の演説で金正恩(キム・ジョンウン)総書記は、南北関係は「同族関係」ではなく「敵対的2国家関係」であることをはっきりさせた。また、朝鮮中央通信は「民族、同族という概念」が北で既に削除されたと明言した。
驚かされるが、驚くべきことではない。1990年代に当時の金正日(キム・ジョンイル)総書記が強調した「わが民族第一主義」の“民族”が、南を排除して北だけを指すものであったことは、既に北朝鮮専門家らの間ではよく知られていた。民族主義的な未練のせいで、ひたすら知らぬふりをしていただけだ。
2023年末の金正恩の公式演説は、統一民族主義の棺にくぎを打って葬り去るものとなった。現実政治の観点からすると、理念や政治体制、社会の構成原則、経済的な生活様式が根本的に異なる2国家に血統的な民族の物差しを突き付け、一つにくくろうとする発想は限りなく荒唐無稽なものだ。
ところが、統一民族主義者らが「進歩」の高地をわが物とし、また、保守言論すらも彼らを「進歩」と規定している韓国の政治談論はもどかしい。統一民族主義のために多数の幸せを犠牲にせねばならないとしたら、その進歩は、ゆがんだ権力の装飾に過ぎない。
南北の指導部にとって民族は、権力維持のための、政治工学上の便利な道具だった。大衆の感情に訴える民族主義の爆発的な力があるせいで、どの政治勢力も統一を手放し、否定することができなかった。
統一に対する南と北の立場は、2国家間で力の均衡がどちらに傾くかによって変わり続けた。北の軍事力が南より強かったころは、北が民族統一を強調し、統一の名分を捨てることができなかった南は消極的だった。
南が北よりも統一に積極的になったのは、1990年代のことだった。南の優位が確実になるや、意思疎通が可能な北の安い労働力に対する企業の欲求や、保守・進歩を問わぬ民族主義的訴求力を見抜いた権力の政治工学が、統一という政治的目標を共有した。
反面、北は身をすくめ続けた。南北問題を「特殊な民族的問題」と定義した91年の南北基本合意書のインクもまだ乾かぬうちに登場した、北の「わが民族第一主義」は、南を排除した北の民族第一主義だった。
最近、北が南の呼称を「南朝鮮」から「大韓民国」という正式な国号に変えたのも、ただならぬ動きだ。南と北は、国際関係として見るべき別個の国である-ということを鮮明にしたのだ。統一民族主義の美名から脱して見つめてみれば、南北問題は一つの民族の問題ではなく、全く異なる体制を指向する国家間の国際問題だ。
「吸収統一」を基調とする韓国とは異なり、演説で「いつになっても統一は実現し得ない」と発言した部分に、統一に対する金正恩総書記の恐怖がよく現れている。相次ぐ軍事的挑発もまた、そうした恐怖の表現だろう。南の統一民族主義者らが北に対して持っている民族的好意すら迷惑なのかもしれない。
同じ民族だからといって、韓半島の平和が保障されるわけではない。統一民族主義は、民族は一つといううわべだけのもので、いや、そのうわべのせいで南北の民族的正統性競争を呼び、かえって緊張を高めてきた。韓国の国際関係において、他の隣国よりも最も近い隣国である南北関係が最も行き詰まっているのは、こうした点も理由の一つだった。
南北が緊張を緩和し、平和な隣人として生きていくためには、国際関係の原則に基づいて国交を樹立し、平壌とソウルに大使館を開設するのが正しい。外交的プロトコルに基づくならば、日本の首相に対するように「閣下」と敬称を付けてくれるどうかは分からないものの、少なくとも「傀儡(かいらい)」と呼ぶことはできないだろう。
2024年の「太陽政策」は、民族という空虚な表題語を捨てて、軍事的抑止力を堅持しつつ、まずは南と北の2国家が平和に共存する国際関係を図らなければならない。外交部(省に相当。以下同じ)が南北交渉の主役に乗り出し、韓半島を含む東アジアの平和的国際関係を構想するのが妥当だ。そのほか環境部、産業部など所管の部処(省庁に相当)ごとに北朝鮮局・北朝鮮課などを置き、最も近い隣国である北との国際協力を図ればよいだろう。
今、韓半島で急ぐべきは民族統一ではなく、最も近い隣国である南と北が平和的外交関係を樹立することだ。われわれの願いは、統一ではなく平和だ。
林志弦(イム・ジヒョン)西江大学教授(歴史学)