▲9月1日、東京都墨田区の横網町公園にある朝鮮人虐殺犠牲者追悼碑前で僧侶らが祈りをささげている様子。/写真=聯合ニュース

 100年前、日本の関東大震災当時、日本人が朝鮮人を虐殺した事実を記録した日本政府の公式文書が発見された。東京に隣接する埼玉県に駐屯していた陸軍の機関が、関東大震災当時、陸軍省に報告した文書だ。「関東大震災時の朝鮮人虐殺を確認した公式記録はない」という日本政府の立場に正面から反駁(はんばく)する文書だ。1923年9月1日にマグニチュード7.9(推定)の強い地震によって引き起こされた関東大震災は、東京都・横浜市・神奈川県など関東一円で10万5000人が死亡・行方不明となる大災害だった。当時、日本人の間で「朝鮮人が暴動を起こした」などの流言飛語が広まり、数多くの朝鮮人が日本の自警団などによって殺害された。

 25日に毎日新聞が報じたところによると、ジャーナリストの渡辺延志さんが防衛省防衛研究所史料室で、関東大震災発生から3日後に日本人が朝鮮人およそ40人を殺害したと記録した「関東地方震災関係業務詳報」を発見し、公開した。これは当時、陸軍の地方機関として埼玉県において徴兵や在郷軍人の管理などを担当していた「熊谷連隊区司令部」が作成した文書で、同年12月15日に上部機関たる陸軍省に提出された。

 報告書によると、虐殺は同年9月4日、警察官らが朝鮮人およそ200人を埼玉県浦和から深谷・本庄警察署方面へ移送する過程で発生した。当時、朝鮮人暴動説が出回っていた状況下、関東地方の警察官は「朝鮮人を保護する」という名目で朝鮮人を集め、警察署に移送した。報告書には、昼間に移送できないまま残されていた朝鮮人およそ40人が、熊谷市内の各所で殺気立った群衆によって殺害された、と明記している。

 報告書は、この事件を「鮮人虐殺」と称し、「朝鮮人は結局、一人も(警察署や日本人を)襲撃しなかった。毒を(井戸に)入れたという話も聞かなかった」と記していた。日本人の自衛に該当し得ないという点を明確にし、こうした行為を「不法行為」と適示した。報告書は、こうした事例を教訓とし「今後朝鮮人を移送する際は夜間を避けねばならず、夜間の移送は殺害される危険がある」とも指摘した。

 ただし報告書は、殺害の主体を「殺気立った群衆」とのみ記し、殺害の容疑者の名前や組織は具体的に記述しなかった。むしろ、在郷軍人会熊谷支部長が、朝鮮人関連の流言飛語を信じる日本人のことを「事理を解せざる蒙昧(もうまい)の徒」と非難する内容を含んでいる。当時、朝鮮人虐殺は各地の在郷軍人会や自警団が主導したものといわれていたが、この地域の在郷軍人会は違った、という説明だ。

 毎日新聞は「陸軍省が実態調査をした資料で、当時日本政府が違法な虐殺の事実を認識していたことを意味する」と報じた。この報告書は、陸軍省の副官が1923年11月2日に、大震災と関連がある関東地方の全ての部隊に「同月25日までに陸軍大臣・参謀総長に(大震災関連の)活動内容を報告せよ」と指示したことにより作成された。今回発見された熊谷連隊区司令部の報告書は、時限を過ぎた12月15日に提出された。日本政府内に、全体の実態調査資料が存在する可能性があるのだ。ただし報告書には、朝鮮人保護の責任がある警察の失策を強調する記述が多く、当の陸軍の過ちはほとんど記述していなかった。毎日新聞は「軍が自分たちを美化しているきらいはあるにせよ、警察との温度差は興味深い」と報じた。

 現在、日本政府は、関東大震災における朝鮮人虐殺の事実を公式に否認している。今年8月、当時の松野博一官房長官は記者会見で、朝鮮人虐殺に関連して「政府内では事実関係を把握できる記録が見当たらない」という立場を表明していた。今回の文献に関する日本政府の公式な立場まだ出ていない。文献を発見した渡辺さんは「日本人がなぜ朝鮮人虐殺に走ったのか、資料に基づいて全容解明しなければならない。単に集団的な精神異常状態だったとか、権力による虐殺だという陰謀論のような説明では不足」と語った。

成好哲(ソン・ホチョル)記者

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