コラム
万博誘致再挑戦は「懲毖録」のような分析から【朝鮮日報コラム】
2030年万国博覧会(万博)の開催地が決まった。釜山への期待が高かった上に、サウジとの得票差も非常に大きく、全国民が悔しさを越えて虚しさまで感じた。状況を読み誤ったことに対する責任論まで出ている。しかし、もっと問題なのは、失敗という現実を突き付けられた我々の姿だ。
主な敗因として韓国で言われているのが、オイルマネーを全面に出したサウジの「反則」と、韓国支持を約束していた国々の裏切りだ。一部は「初めから勝負にならないゲームだった」として、政争にばかり関心を持っている。それどころか「全校100位に負けたのだから、今回の結果は実力ではない」というムードすら漂っている。果たして本当にそうだろうか。
万博の誘致をめぐり、韓国の企業関係者やほとんどの官僚は、最善を尽くしたと信じている。誘致失敗のショックから多少立ち直った今、現場を飛び回っていた人たちに万博誘致失敗の真の理由を尋ねてみた。その内容を紹介してみようと思う。
関係者の話を総合すると、サウジの勝因は「オイルマネー」と一言で言い切れるものではなかった。サウジは我々が考えるよりはるかに戦略的で、はるかに粘り強く、はるかに強い思いを抱いていた。サウジは徹底して専門家らを雇用し、国ごとにロビー企業を定めて詳細まで把握した。観光大国スペインに対しては、スペインにある国際機関をサウジに移すと脅しておいて「それは諦めるから万博でサウジを支持してほしい」と提案した。スペインはサウジ支持を公に宣言し、その後立場を変えなかった。外交問題があったタイに対しては、サウジが先に「我々が誤っていた」と謝罪し、手を握った。タイの顔を立てて確実な支持を引き出した。フランスには、米国の武器の代わりにフランスの武器を購入すると持ち掛け、中国には原油取引時の決済にドルだけでなく中国元も認めると提案した。英連邦の国家については英国の意見が絶対だということを知っていたため、序盤から英国を集中的に攻略した。このため太平洋島しょ国も早い段階でサウジ側についていた。
今回の万博誘致合戦は「座布団返しゲーム」と呼ばれた。一部の投票国が韓国とサウジの間で座布団をひっくり返すように頻繁に支持を変えたというわけだ。そのゲームで、韓国がそこそこ善戦していた時期もあった。
しかし、決定まで残り2カ月となった終盤に、サウジは猛反撃を繰り広げた。当時行われていたサウジと各国による首脳会談の日程は次の通りだ。予定になかったサウジ-アフリカ首脳会談、サウジ-太平洋島しょ国首脳会談、サウジ-カリコム(カリブ共同体)首脳会談などが入っている。サウジだけでなく米マイアミでも開催した。これに出席すれば、基本的に1億-3億ドルの投資が保障されたという後日談もある。このとき、座布団は一気に何十枚もひっくり返された。
もちろん、サウジのやり方がフェアプレーだけだったわけではない。投票当日のBIE(博覧会国際事務局)総会で、韓国誘致団の首脳部は総会会場のロビーでBIEの各国代表らに最後のお願いをする予定だった。ところが、どの国の代表にも、あいさつすらできなかった。韓国の首脳部の前に20-30代のサウジ関係者が「人間カーテン」を作り、各国代表が到着するたびに2-3人が護衛のように取り囲んで連れていったのだ。各国代表の到着時間や車のナンバーまで全て把握していたというわけだ。
誘致合戦を通して学んだことももちろん多い。韓国がほとんど関心を向けていなかった市場が目に入ってきた。「日本や中国はアフリカを大々的に掌握していた」「小さな国の中に資源大国がかなりあった」「地域の専門家があまりに不足している」など、企業のトップらは自らの足で飛び回りながら感じたという。
「韓国には強い思いはあったが、リーダーシップが欠けており、戦略は甘く、カネは不足し、実行力は結集せずバラバラのままだった」。ある企業関係者の告白だ。これらの問題点が、再挑戦の出発点になるべきだと考える。次の世代のためにも、壬辰倭乱(じんしんわらん。文禄・慶長の役)後に残された懲毖録(ちょうひろく=壬辰倭乱を記録した資料)のような分析が今こそ必要だ。
イ・インヨル記者