▲英国公式訪問とフランス訪問の日程を終えた尹錫悦大統領と金建希夫人が11月26日、京畿道城南市のソウル空港に空軍1号機で帰国した/大統領室提供

 尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領夫人の金建希(キム・ゴンヒ)氏が、あるメディアが仕掛けた盗撮取材にまたもしてやられた過程には呆れる。夫人を取材したのは数回訪朝し、北朝鮮の6・25戦争(朝鮮戦争)「勝利」記念式と金日成(キム・イルソン)主席の生誕行事に出席したとして、国家保安法違反で取り調べを受けた親北朝鮮の人物だ。インターネットを検索しただけでも確認できる。少しでも慎重だったならば、決して会うことはなかった人物だ。金建希夫人は携帯メールをやり取りしただけで、一度も会ったことのないそんな人物を大統領就任式の外部からの招待客を集めた夕食会にまで招待した。その場で問題の人物は大企業トップはもちろん、大統領とも写真を撮った。警備と儀典上の手続きを全く欠くとんでもない事態が起きたのは、完全に金建希夫人のせいだった。

 厳密に言えば、大統領夫人は公職者とは言えない。国民が夫を大統領に選出し、地位と権限を与えただけだ。しかし、夫人の善行、誤った行動の全てが大統領の評判に直結する。知らず知らずに夫にさまざまな影響を及ぼさざるを得ない。特に大統領夫人は公式に割り当てられた国家予算を使う。ある席で最近、一部公務員が大統領をV1(VIP1)、金夫人をV2と呼ぶという話を聞いたが、良くも悪くもV2と呼ばれるほど公的関心が高い対象であることは明らかだ。

 韓国では大統領夫人に対する評価が良かったためしはほとんどない。大統領任期中、あまり話題にならないまま静かに過ごした夫人たちは、平均点程度は取るようだが、そうではない一部は嫌悪の対象にもなった。悪い印象を残した大統領夫人に共通するのは、あまりにも前面に出て世間の話題に上ることが多かった点だ。多くの国民は「大統領夫人を選出したわけではないのに、なぜ夫人が権力を行使するのか」という考えを持っている。韓国社会がまだ保守的だったからかは分からないが、社会の根底にそんな認識があるのは現実だ。

 そんな社会的雰囲気の中で、大統領夫人は慎重さ、思慮深さ、慎重さを備えなければ、結局大統領と国政遂行に否定的な影響を及ぼすことになる。なかなか40%を超えない大統領の国政支持率は、そうした結果でもあるのだろう。

 皆が知っている通り、大統領という職は楽しむポストではない。非常に名誉だが、負うべき責任が重すぎて幸せとは言えない。心に重荷をたくさん抱えている人は笑っていても真に笑っているわけではない。仕事がうまくいって感激してうれしい時よりも心残りでもどかしくて腹が立つ時の方がはるかに多い。歴代大統領もそうであったし、今の尹錫悦大統領も同じだろう。

 ましてや大統領夫人という地位は楽しむこともできないが、楽しんではいけない地位でもある。世間の重荷を一人で背負うような大統領のそばで、唯一の心の安らぎにならなければならないのが妻だ。たとえ楽しくてもそれを表に出してはならない。金建希夫人が盗撮にやられた過程を見ていると、大統領夫人という重責をどれほど感じているのか疑問に思う。心配事が多ければ言葉と行動、判断、決定、さらには身なりにまで気を配る。楽しんでいる人物はそうではない。

 最近政界では大統領の人事が理解されない際、「夫人がやったこと」とうがって推測することが多い。大半は事実ではないだろうが、その一部は事実だと感じることもある。大統領夫人というポストを慎重かつ重い気持ちで受け入れなければ、周辺に人事上の請託をする人々が群がることになる。

 野党は近く、金建希夫人に対する特別検事法案を成立させる構えだ。問題は文在寅政権の検察が隅々まで捜査したにもかかわらず、容疑を見つからなかったことだ。それにもかかわらず、民主党が特別検事を押し切ろうとしているのは、金建希夫人を特別検事が捜査すれば、それ自体で国民世論の大半が呼応すると計算しているからだ。大統領は拒否権を行使することも、しないこともできない状況に置かれることになる。金建希夫人はこんな雰囲気を招いたことに対し、自分の責任が全くないのかを振り返る必要がある。

 閣僚ポストを提示された人々の多くは「妻が反対しているからできない」と答えるという。一部の国会議員候補の夫人たちもそうだった。その夫人たちも名誉を知らないわけではなかろうが、負担に耐えられそうにないと考えたのだろう。ある意味でまさにその負担を初心のまま失わないことが地位の高い公務員の夫人が持つべき徳目だ。

 韓国社会で「大統領夫人」という地位自体が基本的に持っているものがある。それほど好意的ではなく、あら捜しをする外部の「視線」だ。自分がしたこと、時にはしてもいないことに対する「責任」も付いて回る。大統領夫人には基本的にないものもある。やりたいことをして、着たい物を着て、言いたいことを言って、楽しみたいことを楽しみ、誰かにあげたいことをあげるような「自由」はない。ところが今、自由はあっても責任はないのではないかと多くの人が懸念している。

楊相勲(ヤン・サンフン)記者

ホーム TOP