▲2002年に韓国語に翻訳された『わが心の安重根』。写真は、2022年に出版された改訂版の表紙。

■「手紙」(a)の最終分析

 今、あらためて、現在広く流布している手紙(a)の実体を分析してみます。これは、都珍淳教授の論文を基に私が再び番号を振って分析したものです。太字で表示した部分が、1994年以降に付け加えられたものです。

〈(1)おまえが老いた母より先に死ぬことを不孝と考えるのであれば、この母は笑い者になるだろう。

(2)おまえの死はおまえ一人のものではなく、朝鮮人全体の公憤を背負っているのだ。おまえが控訴をしたら、それは日帝に命乞いをすることになる。

(3)おまえが国のためにここに至ったとあらば、

(4)余計なことを決心せず死ぬべき。正しいことをして受ける刑なのだから、ひきょうに命乞いをせず、大義に死することがこの母に対する孝道だ。おそらくこの手紙が、この母のおまえに書く最後の手紙になるだろう。ここに寿衣を作って送るので、これを着て行きなさい。

(5)母は現世でおまえと再会することを期待していないので、来世では必ず、善良な天父の息子となり、この世にいでよ〉

 ここで、趙瑪利亜の三つの伝言の中に実際にあったと思える根拠のある文章は、(3)(1910年2月1日、2度目の伝言)と、(5)(1910年12月23日、最初の伝言)だけです。そのうちの(5)からは「刑に服して速やかに現世の罪悪を償うべき」「神父さまが代わりにざんげをささげるだろう」という言葉が削除されました。残りの(1)(2)(4)は、実際に趙瑪利亜が言ったことではなく、全て1994年以降に「作られた」ものです。(1)は1994年の斎藤氏の著書に初めて出て来る内容で、(2)は2002年の韓国語翻訳本で初めて出て来る内容、(4)はその後に何者かによって追加された内容です。

 かくして、虚構と実在の資料を取り交ぜて継ぎはぎした資料、操作と潤色で作られた言葉が、実際にあった伝言の日付(1909年12月23日、1910年2月1日と2月13日)を全て飛び越え、安重根の死刑宣告日である1910年2月14日より後に母親が送った手紙の内容であるかのように化けたのです。

■「寿衣」は果たして母が作ったのか?

 この「操作された手紙」には「ここに寿衣を作って送るので、これを着て行きなさい」という言葉が挿入されています。ミュージカルや映画『英雄』では、母親が作ってくれた寿衣を着て刑場へ向かう安重根の姿が大きな感動を与えました。

 しかし…これもまた、実際とは違いました。安重根の死刑執行日は1910年3月26日でしたが、安重根は3月8日から11日にかけてウィレム神父と会った後に初めて「自分の服は血がついて汚れたので、朝鮮風の白い服に早く着替えたい」と、寿衣を要請していました。2月14日以前の母親の「伝言」に、「寿衣を作って送る」という話が出てくることは到底あり得なかったのです。

 ならば、安重根はどうやって寿衣を入手したのでしょうか。1910年3月24日付満州日日新聞は、このように報じました。「安重根が注文した白い韓服は2-3日前、旅順の客桟(宿泊施設の一種)に滞在している二人の弟の元へ送られてきた、価格が56ウォンで非常に立派なものだという」

 母親の趙瑪利亜が寿衣を作ってあげたのではなく、息子の要請に基づいて56ウォンを出し、仕立屋に寿衣を注文、購入した後、安重根に届けたのです。

■趙瑪利亜はなぜ息子にあんなことを言ったのか?

 ならば、後にあまたの韓国人から義士として賞賛された息子に対し、当の母親・趙瑪利亜はなぜ、あんなむごいことを言ったのでしょうか。「速やかに現世の罪悪を償った後、次の世では必ず、善良なる天父の息子になって世に再びいでよ」という言葉をたやすく言える母親は、おそらくほとんどいないでしょう。趙瑪利亜もまた、非常に苦しんでいたのでしょう。

 最初の伝言が、安重根の前で十字架を掲げる厳粛な儀礼を通して伝えられたことに注目すべきです。カトリックの教理上、他人を殺して十戒に背いた者は自らも死すべきという聖書の原理に基づき、死をもって贖罪しなければならないという宗教的立場だったのです。

 しかし、趙瑪利亜の立場は敬虔(けいけん)なカトリック信者としてのものであって、決して日帝の判決や植民政策に同調するものではないという事実に留意すべきだと都珍淳教授は言います。趙瑪利亜は1907年の国債報償運動に参加し、息子の死刑宣告のニュースを聞いて「韓国の数十万の命を、この先、何をもって代わりにするつもりか」と日本の法廷に憤っていました。その後も、独立運動のスポンサーかつ、母親代わりの役を果たしたと評されています。

 「趙瑪利亜の手紙」の操作は、事実の歪曲にとどまらず、母親・趙瑪利亜と息子・安重根の重大な立場の差を覆い隠す役割を果たした、と都珍淳教授は指摘しました。殺人の問題は抗日運動史でも重要な争点で、趙瑪利亜の立場は結局、安重根が監獄において到達した内面の最終地点になるのです。母子の重要な意見の違いを直視してこそ、安重根の「東洋平和論」を理解し、継承できるのです。

■操作された「趙瑪利亜の手紙」の影響は…

 このように歪曲された「趙瑪利亜の手紙」が及ぼした影響は大きなものでした。最近テレビ番組でこの手紙が本物であるかのように紹介された例を幾つか見てみましょう。

2013年5月11日、MBC『無限挑戦』

2014年2月13日、JTBC『舌戦』

2015年11月17日、EBSカルチャー『本の外の歴史:安重根の寿衣』

2016年3月20日、KBS2『ハッピーサンデー1泊2日』

2019年2月25日、tvN『問題的男子』

2019年3月13日、JTBC『差の出るクラス』…

(2023年1月5日のSBS『尾に尾を付けるその日の物語』は、操作された手紙(a)の代わりに趙瑪利亜の最初の伝言内容、すなわち伝言(b)前半部分をきちんと紹介しましたが、依然としてこれが手紙だったというミスからは逃れられませんでした。換言すると、同番組の制作陣は、少なくとも(a)は信用に値する資料ではないということを認知していたものとみられます)

 都珍淳教授は「史料の操作や創作が、この上ない好意による称揚や善意によっても十分に起こり得るということに留意する必要がある」と言っています。そして、このように述べています。「1994年ごろにまかれた操作の種が、21世紀に入って収拾のつかないほどに潤色され、全方位に拡大し、今では一定の病理的な様相を呈している。すなわち、種をまいた者と共に、大衆の広範囲な『愛国主義』が培養の温床となった」

 さらに都教授は、このように論文を締めくくりました。「操作された虚構が『荘厳な歴史』に編入されていることをつかみ出し、正すために、好意を持つ主題であればあるほど客観的な距離を維持しようとする厳正性、愛国的主題であればあるほど批判的思考の許容される学問的開放性が、しっかりと確保されるべきであろう」

 安重根関連団体のある人物が、このような言葉を残したことがあります。「安重根義士は、ここまで美化しなくとも十分に尊重され得る」

 『わが心の安重根』が出版される1994年より前の時点でも、韓国において安重根は義士でした。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

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