▲ミュージカル『英雄』の一場面。殉国直前の安重根=ヤン・ジュンモ=の様子。/写真=ACOM

 趙瑪利亜の2回目の「伝言」は、年が改まった1910年2月1日にあったというのが米州新韓民報の同年3月10日付の報道です。都珍淳教授が最近探し出したものです。韓国人弁護士アン・ビョンチャンは、旅順地方裁判所から公判の弁護を拒否された後、安重根と面会し、趙瑪利亜のこのような言葉を伝えたといいます。「おまえが国のためにこそ今の境遇に至ったとあらば、死しても光栄であろうが、母子はこの世で再び会うことはできないので、定離(別れるものと定められていること)においていかにすべきか」。最初の伝言で述べたように息子が罪を犯したと考えつつも、そのことが国のためだったのは理解しており、二度と会えないだろうと感じている、というのです。

 3回目の伝言は、安重根が死刑宣告を受ける前日の2月13日、再び面会に来た二人の弟が伝えた母の言葉で、同日の満州日日新聞に載りました。「結局、死刑の言い渡しを受けたならば潔く死に、名門の名を汚さぬよう、速やかに天の神の元へ召されるべき」。記事は「力強い父母の心に検察官も暗涙にむせた」と書きました。ここでの「名門」とは、伝統的な両班名家という意味ではなく、黄海道一帯の天主教信者を急激に増やすことに貢献した「カトリックの名門」という意味だ-と都珍淳教授は解釈しています。やはり、最初の伝言と同じで「死によって贖罪(しょくざい)せよ」という意味になるのです。

 趙瑪利亜の「伝言」はこの3種類が全てです。他にはありません。

 韓国人がよく知っている(a)の大部分を占める内容、「朝鮮人全体の公憤を背負った」「大義に死することが孝道」「正しいこと」「笑い者」「不孝」などの内容はどこにも見当たりません。「孝」や「義」についての言及そのものがないのです。

 では、趙瑪利亜が息子へ送った手紙は?

 そう。どこにも、全く見られません。「伝言」があるだけで、手紙はなかったのです。

 ならば「手紙があった」という話はいつ出現するに至ったのでしょうか。

■1次操作:斎藤泰彦『わが心の安重根』

 都珍淳教授は、こう語ります。「手紙の調査によれば、安重根義挙当時から趙瑪利亜に対し愛国的にあがめる動きがあったが、上で言及された手紙は登場しない。これが広範囲に登場するのは比較的最近、2010年前後だ。その元祖を追跡し、挙げていくと…」

 先に触れた本、日本の宮城県栗原市、大林寺住職・斎藤泰彦氏の著書、1994年に出版された『わが心の安重根』だったのです。斎藤氏は東北大学仏文科を卒業し、朝日新聞の記者として活動したといいます。

 斎藤氏が書いた『わが心の安重根』は、安重根が旅順監獄に収監されていた際の、日本人看守・千葉十七(1885-1934)と安重根の縁を中心に記した本です。しかし斎藤氏は1935年生まれで、千葉氏と会って証言を聞くことはできないため、本の信ぴょう性には当然疑問があります。しかも、趙瑪利亜の伝言が安重根の死刑宣告「以後」に行われたという誤った記述と共に、この伝言を著書でこのように記しました。

 「控訴などせずに、すぐ刑に服するのですよ。そなたは、韓国人として祖国のために義挙を行ったのですから、控訴をすれば命を長らえるためにもなってしまい大変な恥になります。もしそなたが、年老いた母より先に死ぬのが不幸(原文ママ)になると考えて控訴するなら、この母の教育は一体なんであったかと笑われるのですよ」(斎藤泰彦『わが心の安重根』初版、214ページ)

 この内容は、同書が出版されるまではいかなる資料にも見られなかったものです。「義挙」「不孝」「笑われる」のように、もともと趙瑪利亜の伝言にはなく、後に出てくる手紙(a)にのみある言葉がまさにここで登場します。「すぐに刑に服すべき」という理由が、最初の伝言のように「現世の罪を償うため」ではなく、「義挙を行ったのだから」へと意味が完全に変わっているのです。

 これは明らかな操作だと都珍淳教授は評価しています。都教授は2010年5月22日に大林寺で斎藤氏と会い、本の内容の疑問点について尋ねてみましたが、斎藤氏はしばし沈黙した後、席を立ち、たばこを吸って戻ってきて、本の内容の一部を自分が操作したことを認めた後、急いでインタビューを終えた-といいます。「伝言」の部分についての釈明は聞くことができませんでした。

 斎藤氏が操作を加えたことが間違いないのであれば、斎藤氏はなぜ、そんなことをしたのでしょうか? 都珍淳教授はこのように答えました。

 「斎藤氏は大林寺に安重根の揮毫(きごう)『為国献身』の遺墨碑を建てました。本を出版した直後、大林寺は安重根と韓日交流の象徴へと浮上しました。韓国人の訪問を誘導するために安重根の本を書き、話を誇張する過程で、母親の手紙を操作・潤色したとみられます」

■2次脚色:韓国語版『わが心の安重根』

 ところが、同書が2002年に韓国語へ翻訳される際、原文にはない内容が追加されました。当該部分の韓国語翻訳を見ましょう。番号は都教授が付けたものです。

 「(1)おまえがもし、老いた母より先に死ぬことを不孝と考えるのであれば、この母は笑い者になるだろう。おまえの死はおまえ一人のものではなく、朝鮮人全体の憤怒を背負っているのだ。おまえが控訴をしたら、それは命乞いをすることになる。(2)おまえが国のためにここに至ったとあらば死しても光栄であろうが、母子はこの世で再び会うことはできず、その心情をかくのごときと語ることができようか…」

 斎藤氏の著書を翻訳する際、(1)では「韓国人全体の憤怒を背負っている」という、原文にはない内容が追加されました。ここに、1910年2月1日の新韓民報に載っていた二つ目の伝言の内容である(2)を新たに挿入し、「国のためのことをやったのだから公訴(控訴)するな」という文脈を作り上げました。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

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