▲チェ・ビョンテク公州教育大学教授/写真=オ・ジョンチャン記者

【インタビュー】『韓国近代林業史』を出版したチェ・ビョンテク公州教育大学教授

 朝鮮王朝時代にはうっそうと茂っていた森を総督府が林野調査事業で強奪したせいで、はげ山になった-と信じる韓国人は多い。韓国近代史研究者のチェ・ビョンテク公州教育大学教授は「健全だった朝鮮の山林を日帝が荒廃させたという主張は事実とは異なる」と語った。最近『韓国近代林業史』(青い歴史刊)を出版したチェ教授は「日帝支配以前、朝鮮の山林は既に深刻に損なわれていた」と指摘した。

 1910年に朝鮮総督府が調査した「朝鮮林野分布図」によると、韓半島全体の林野の68%は木が全くないか、ほとんどないはげ山だった。漢陽都城の近辺には木がきちんと残っている山がなかった。17世紀の『承政院日記』に「関西地方(平安南道と平安北道)を見て回ると、あらゆる山がはげ山だ」「平安道だけでなく他の地方でも同じように木々がなくなったが、これは火田の耕作のせい」(粛宗4年〈1678年〉10月24日)と記されるくらいに、はげ山が急増していた。

■オンドルの普及で薪の需要が急増

 朝鮮王朝後期、なぜ山林は急速に荒廃したのだろうか。チェ教授は火田(焼き畑)、山田(山間部の農地。山畑)開墾の急増、オンドルの普及に伴う燃料用の薪や、塩生産の燃料需要の増大、兵船・漕運船(税として集めた穀物などを運ぶ船)建造用の木材需要を挙げた。「船1隻を造るのに要る木材を推算した研究によると、樹齢60-80年のマツの木150本が必要になる。朝鮮王朝後期には毎年1000隻ほどの船を新たに造らなければならなかったので、およそ15万本のマツの木が伐採された」とチェ教授は語る。

 朝鮮王朝時代には、体系的な造林計画や代替燃料の開発といった林業政策はなかった。「入山禁止」区域を作って王室・国家の需要を充当し、利権を売り渡すことに注力するばかりだった。

■「文明的林業」を打ち出した日帝

 朝鮮を強制併合した総督府は、統治の正当性を宣伝するため「文明的林業」を掲げた。毎年3億本の木を植えるなど、造林に乗り出した。チェ教授は「体系的な山林政策がないのは日帝も同じだった」と語った。林野調査事業(1917-24)を通して山林の所有権を確定した後、林野全体のおよそ60%に当たる民間の林野所有・縁故権者を強制的に官製の「山林組合」に加入させた。チェ教授によると「総督府は、体形的な林業政策の下に予算を投じて造林事業をするのではなく、その費用と負担を民間所有者らに転嫁した」という。住民らは苗木の購入や植栽、病虫害の防除などに資金と労働力を提供しなければならなかった。自分の所有する山に入って薪を取ることすら思い通りにはできなかった。山林組合が定めた採取の時期と条件に従わなければならなかった。

 チェ教授は「日帝は造林にふさわしい樹種の選択や技術指導はきちんと行わずに、苗木を植えることばかり強制した」とし「しかし1937年に中日戦争が始まった後、木材・木炭の需要が急増したことから、木を切って供給することにばかり注力した」と語った。その結果、日帝時代末期には1910年ごろと同じくらいにはげ山が増えた。

■「韓国の山林緑化は世界的モデル」

 解放後、韓国で山林緑化が本格的に始動したのは、1973年の第1次治山緑化10カ年計画が始まってからだ。政府の予算を造林事業に投資しつつ、住民の参加を引き出した。韓国政府は造林にふさわしい樹種と技術を提供し、練炭・石炭など代替燃料の普及に力を注ぐことで、薪にする木の需要を減らすことにも寄与した。第1次治山緑化事業の目標は計画6年目の1978年に繰り上げ達成され、翌年から始まった第2次治山緑化10カ年計画が終わるころには、韓国全体の山林面積の3分の1に当たる205万ヘクタールに49億本の木が植えられた。

 朴正煕(パク・チョンヒ)政権の山林緑化政策が、その後の政権にも受け継がれたおかげで、「韓国は第2次大戦後、山林復旧に成功した唯一の開発途上国」(国連食糧農業機関〈FAO〉、1982年)、「韓国の山林緑化は世界的モデル」(レスター・ブラウン、2008年)という賛辞が相次いだ。チェ教授は「山林緑化に対する韓国政府の確固たる、一貫性ある政策と適切な予算投入が国民の支持と参加を引き出した」とし「担当公務員らの専門性と献身的努力が組み合わさり、世界的に成功した山林緑化を実現できた」と語った。

金基哲(キム・ギチョル)学術専門記者

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