文在寅(ムン・ジェイン)政権でスポークスマンを務めた「共に民主党」のある議員は昨年「何が何でも血を味わおうとする群れにあまりにも簡単に肉片をやっている」というぞっとするような書き込みを掲載した。ある長官候補者が聴聞会で落第点を付けられた直後だった。一部の疑惑提起が無理だというのとは次元の違う「敵意」が感じられる。本来の役割によって公職者を検証する野党とマスコミを人ではなく猛獣扱いしたのだ。

 同議員は昨年末からは、尹錫烈(ユン・ソクヨル)大統領の家族と関連した各種の疑惑を提起する先駆者的役割を買って出た。その過程で事実と異なっていたことも明白となり、公の場で謝罪もした。最近では首相候補者を主なターゲットとしている。同議員と同僚たちの最近の聴聞会での攻勢は、公職者検証のためのものなのか、それとも血の味に飢えているからなのか。

 民主党が2020年の総選挙で圧勝した後、ある民主党議員がラジオ番組に出演し「(野党には)政府をけん制し制御する役割を国会でしなければならないという『強迫観念』がある」と非難したこともある。国会における政府のけん制は憲法が規定した三権分立の義務だ。ところが政府をけん制する目的で少数野党が法司委員長の座に就く慣例により、野党が法司委員長を要求するや、与党がこれを拒否。「強迫」云々と言った。

 2年がたって与野党の交代を控えた先週、他の民主党議員が同じ番組に出演した。同議員は法司委員長を渡すことはできないとし「伝統的に野党が政府をけん制するために法司委員長を受け持ってきた」と発言した。私が法司委員長と言えば「政府けん制」であり、あなたが法司委員長と言えば「反対のための反対」「強迫めいた足の引っ張り合い」となる。

 この5年間、韓国の国民は政権によるこうした二重の物差しを嫌というほど見せ付けられてきた。これには枚挙にいとまがない。私の味方か、それともあなたの味方かが最重要事項であり、私には春風のように寛大でありながら、他人には秋霜よりもっと厳しく当たった。「ネロナンブル(自分がやればロマンス、他人がやれば不倫の頭文字を取った略称で、同じことに対して他人には厳しいが自分には甘いの意)」は今では国際語となっている。常識的な多くの人が政治に幻滅するようになった最大の理由だと思われる。

 現在の与党は、こうした文政権の二重の物差し・ネロナンブルにより多くの利益を得た。あまりにも多岐多彩にわたっており、突っ込む要素に事欠かなかった。本人たちの欠点も少なくなかったが、「ネロナンブルの結晶体」のような政権の中心人物によるオーラのおかげで比較的浮き彫りにはならなかった。

 しかし、今では政権交代によって、攻守が交代した。現与党が5年にわたって民主党を攻撃してきた基準と論理は、そのままブーメランとなって帰ってくる。それだけ自分自身により厳格になり、一貫性を貫かなければならないが、一部の人事であらわになった疑惑に目を向けると、果たしてこうした警戒心があるのかどうか疑問に思う。すでに「文政権と何が違うのか」といった声まで聞かれる。疑惑を覆い隠す過程でも、そのような兆しがうかがえる。与党の指導部は、長官候補者の子どもの「立派な履歴書作り」に対し「貧富の格差が歴然と存在し、両親の財力によって教育を受ける水準に差が出ることが欠格理由になり得ない」と弁明した。これは、チョ・グク氏による一連の問題が持ち上がった際、民主党の元議員が「超エリートたちには、庶民には手にできない人間関係があるため、その子どもたちはあえて不法や便法に走る必要がない」と答弁し、青年たちの怒りを買ったのをほうふつさせる。

 ネロナンブルを根本的に解消することができないなら、少なくとも過ちが明らかになったときには認め、恥じらい、謝罪し、責任を負う姿を国民は期待する。普通の人々はそうするからだ。前政権の人々はこのようなとき、むしろ「私たちにはそのような遺伝子が存在しない」と言い張り「考えが変わった」と叫び声を上げた。それでも駄目なら「あなた方の方がもっとひどい」と水の掛け合いに転じた。こうしたうんざりするネロナンブルの悪循環を、尹錫烈政権は少しでも断ち切ることができるだろうか。これに失敗し、「政界ではどいつもこいつも皆一緒」という思いが国民の間で広がれば、待っているのは重苦しい未来だけではないのか。

イム・ミンヒョク記者

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