ピープル
「日本への帰化を勧められることは多かったけれど、韓国人だからこそやるべきことが多い」
「日本の政財界の友人が私に帰化を勧めるたびに、私は『自分が韓国人だから日本でできることが別にある』と話したものです」
ソウル市内のホテルで今月5日に開かれた「第15回世界韓人の日記念式」で在日僑胞実業家の崔鐘太(チェ・ジョンテ)YAMAZENグループ会長が在日僑胞の地位向上と韓日関係発展に貢献した功績で、最高級の勲章である「国民勲章無窮花章」を受章した。1980年代に在日僑胞の指紋押捺拒否運動が盛んだった当時、韓国で50万人の署名を集め、日本政府に提出した崔さんはその後、在日僑胞の地方参政権運動にも取り組んだ。崔さんは「いつでも誇らしい韓国人として生きろという母の意志に少しでも従いたかっただけだ」と謙遜した。
崔会長とその母親は在日僑胞と韓国がつくった「奇跡の歴史」を象徴する存在だ。母親のクォン・ビョンウさんは在日大韓婦人会の母であり、在日大韓民国民団の中心人物だった。1988年のソウル五輪当時、韓国のトイレ改装運動を支援し、通貨危機当時の98年には「国を救う通帳を持とう汎国民運動本部」を発足させた。94年には息子と同じ「国民勲章無窮花章」を受章。2007年に84歳で死去した。崔会長は「『他人に恩を受けたら、石に刻んで忘れず、他人に施したことは忘れろ』と言っていた母の言葉がいまでも耳に残る」と感慨無量そうだった。
兵庫県で生まれた崔さんは、元留学生で運送会社を興した崔メンギ氏の二男として生まれた。兄が若くして亡くなり、長男の役割を務めた崔さんは中学校の卒業式の翌日に父と死別した。人生が変わったのは高校1年の時だ。サッカーの名門チームで中心選手だったが、日本人ではないという理由で全国大会に出場できなかった。失望した崔さんに監督は「帰化すればよい」と言った。崔さんは帰化せずに在日僑胞代表として韓国の全国大会に出場した。「ソウル運動場で初めて愛国歌を聴き、歌詞も知らなかったが涙が流れた」と話した。
両親が興した平山運輸を土台にして、ゲームで大金を稼いだ崔さんは、貿易、不動産、パチンコなどに事業を広げ、大阪財界の大物へと成長した。2010年には大阪近郊に1500人を埋葬できる「望郷の丘」を設けた。「自分は両親を(韓国の)天安にある『国立望郷の丘』に納めることができたが、そこに埋葬されたくても行くことができない僑胞のため」だという。
崔さんは具玉姫(ク・オッキ)をはじめ、金鍾徳(キム・ジョンドク)、崔京周(チェ・キョンジュ)、梁容銀(ヤン・ヨンウン)ら日本に進出したゴルファーの「あしながおじさん」だった。日本のゴルフ週刊誌は「神戸にある崔さんの自宅は韓国のゴルファーにはオアシスのような場所だ」と書き、崔さんを「日本でゴルフ韓流をつくった人物」として紹介した。2013年には鳥取県の大山ゴルフクラブを買収して話題になった。大韓ゴルフ協会の国際担当理事を務める崔さんは15年から韓日のアマチュア国家代表の親善大会をそこで開き、スポーツを通じた交流と和合にも取り組んでいる。今年は日本女子アマチュア選手権も開催した。
崔さんは麻生太郎自民党副総裁との太い人脈を使い、韓日関係が行き詰まった際にはパイプ役を務めている。崔さんは「隣国が嫌だからといって、引っ越すことはできないではないか。未来を共に開拓する関係に発展させるため、政治家も顔を突き合わせなければならない」と話した。また、日本の僑胞社会の新たな団結も強調した。崔さんは「現在民団会員は35万人いる。1989年以降、日本に移住した『ニューカマー』による在日本韓国人連合会(韓人会)は17万人余りを数える。日本社会に根差した民団と比較的若い世代が多い韓人会が力を合わせ、韓国人であることを誇る在日僑胞社会をつくりたい」と抱負を語った。
ミン・ハクス記者