パラリンピックにおいて最優秀選手賞を意味した「ファン・ヨンデ功績賞」がなくなる。

 国際パラリンピック委員会(IPC)は、同賞に代わる「I’mPOSSIBLE (アイム・ポッシブル)アワード(私はできる賞)」を新設した。受賞対象は「包容的な社会に寄与した学校とパラリンピック選手」だ。東京パラリンピック(8月24日-9月5日)組織委員会が同賞の新設に深くかかわっており、今大会での同賞授与に必要な費用も出すという。

 IPCは2019年11月、こうした趣旨を大韓障害者体育会に通知した。大韓障害者体育会は30年以上の歴史を持つ「ファン・ヨンデ功績賞」の重要性を説明し、「廃止を再考してほしい」と要請したが、IPCは考えを変えなかった。現在のIPC会長は2017年9月の総会で当選したアンドリュー・パーソンズ氏(44)=ブラジル=だ。同氏は障害者ではない。

 「ファン・ヨンデ功績賞」は、自身も肢体障害を持ちながら、身体障害者の福祉・リハビリ・教育に尽力してきた女性医師・黄年代(ファン・ヨンデ)氏(82)の名前を冠した賞だ。しかし、黄氏が「私の人生を決定づける重大事件」と何度も語ったという逸話のため、日本が「ファン・ヨンデ功績賞」の存続に不満を持っていた、と韓国の障害者スポーツ界では見ている。「日本がパラリンピック開催を機にこのファン・ヨンデ功績賞をなくし、まったく新しい賞を作って大会のレガシー(遺産)にしようとしている」という見方もある。

 3歳の時にポリオ(小児まひ)にかかった黄氏は、体が不自由なため小学校入学を拒否されたという悲痛な経験がある。当時の日本人校長が校長室の床にチョークで約1メートルの線を引き、「飛び越えみろ」と要求したという。歩くこともままならず、母親におぶさっていた少女はひどく傷付き、その場で泣いてしまったとのことだ。

 翌年の解放(日本による植民地支配からの解放、日本の終戦)で黄氏はその学校に入った。その後、苦労しながらも努力して学業にまい進した末、梨花女子大学を卒業、セブランス病院で韓国初の障害者女性医師(小児科)として働いた。さらに、28歳にして韓国小児まひ児童特殊保育協会を設立した。韓国初の障害者リハビリ・福祉施設である正立会館建設(1975年)を主導し、館長を務めた。

 1988年には国内出版メディアから贈られた「今日の女性賞」の賞金200万ウォン(現在のレートで約19万円)をソウルパラリンピック準備委員会に寄付した。これが「ファン・ヨンデ功績賞」設立のきっかけになった。当初は「克服賞」という名称だったが、2008年の北京パラリンピックから「功績賞」に変わり、閉会式の公式行事になった。パラリンピック精神を最もよく具現していると評価された選手2人(男女1人ずつ)に黄氏が75グラムの純金でできたメダルを授与した。事業費には政府をはじめとする各界の支援金や黄氏の家族の私財が当てられてきた。

 これまで米国、カナダ、ドイツ、南アフリカ共和国など21カ国の男女選手28人が受賞している。アジアでは韓国と日本の選手が1人ずつ栄誉に輝いた。2018年平昌冬季パラリンピック閉会式では、「ファン・ヨンデ功績賞」制定30周年を記念するため、歴代の受賞者5人が出席し、黄氏に感謝牌を手渡した。

 一部のIPC加盟国は「黄氏はパラリンピック運動に直接関与したことがない」として、「ファン・ヨンデ功績賞」の名分に異議を唱えてきたと言われる。だが、黄氏が建設の先頭に立った正立会館ではスポーツを障害者リハビリの一手段としてきた。黄氏が副会長を務めた韓国障害者福祉振興会(当時の会長は李健煕〈イ・ゴンヒ〉サムスン会長)はパラリンピック韓国代表選手のトレーニングやパラリンピック派遣を担った。この組織を母体にして2005年に大韓障害者体育会が発足した。大韓障害者体育会の顧問を務めた黄氏は韓国パラリンピックの歴史の生き証人だ。

 黄氏は平昌冬季パラリンピック時、「東京パラリンピックは私が直接、賞を授与できる最後の大会になるだろう」と語っていたが、この数年間、アルツハイマー病と闘っていて、体にも心にも疲れが見える。しかし、「ファン・ヨンデ功績賞」がなくなるという知らせを聞き、非常に残念がっているとのことだ。

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