話題の一冊
「世界的かつ伝統的な建築」…プリツカー賞8人を生んだ日本の成功戦略
日本は、「建築のノーベル賞」と呼ばれるプリツカー賞の受賞者を最も多く輩出している国だ(8人)。西欧建築が導入されるルートだった日本は、韓国の現代建築にも非常に大きな影響を及ぼした。しかし、日本の現代建築を体系的に眺望した書籍を探すのは難しい。
KAIST(韓国科学技術院)人文社会科学部のチョ・ヒョンジョン教授が3月上旬に出版した『戦後日本建築』(MATI BOOKS刊)は、異例にも、1945年の敗戦以後の日本建築の流れを網羅した書籍だ。最近、ソウル・光化門で会ったチョ教授は「かつて韓国社会は日本をタブー視したが、このごろの学生は日本のことがだんだん気になってきているらしい」とし「そういう変化に力をもらって、韓国の建築を映し出す鏡として日本建築を見つめようとした」と語った。
「戦後」とは、単なる時間上の区分ではなく、軍国主義と決別して経済成長・平和主義を掲げた「価値の空間」だ。新たな国家アイデンティティーを示すという課題が、この時期の日本の建築家らに与えられた。チョ教授は「国家建築家と呼ばれた丹下健三(1913-2005)の広島平和公園計画が、国内でも前向きな反応を得て世界的にも『国際主義モダニズムの力作』として受け入れられるなど、日本は成功を収めた」と語った。しかし、日本の成功を見る韓国人の心境には複雑なものがある。「広島を平和の聖地として掲げることで、日本は侵略戦争の加害者から原爆の被害者へと姿を変えることができた」
韓国でも解放後の国家アイデンティティーを建築で表現するという課題はあったが、成功したものではなかった。「李承晩(イ・スンマン)政権が南山に国会議事堂を建てようとした計画が、クーデターで朴正煕(パク・チョンヒ)政権になって廃棄されました。国会議事堂は、かなり時間が経過してから汝矣島に入りました。政治的不安、深刻な左右対立などにより、容易ではなかったようです」
建築は、再び保守化するこんにちの日本社会の断面を示してもいる。東京オリンピックのメインスタジアムの設計を巡る問題が代表的なケースだ。最初の設計者だったザハ・ハディドの計画は「あまりに工事費がかかる」という理由で廃棄され、再び行われた国際コンペは、作品を日本語でのみ提出させるなどの条件で論争になった。最終的に、木材を使用して日本の美を強調した隈研吾が起用された。チョ教授は「日本が最近になって極右化し、再び『日本主義』が復活する過程と合わさったものと思う」と語った。
日本は、世界が直面している問題を少し先行して経験したという点でも「鏡」になり得る。チョ教授は「日本では自然災害、高齢化、人口減少、低成長といった問題へ建築的にどのように対応するか、1990年代から議論が始まった」とし「今の韓国でも進行している諸問題であって、韓国の建築家らにも参照点になり得るだろう」と語った。
チェ・ミンギ記者