▲国家報勲処に残された1963年の大統領表彰時の「金根洙氏功績調書」。右上の「生存作故」欄に「作故」と書かれている。/趙修真議員事務所提供

 朝鮮独立運動に関わった運動家とその子孫・遺族による団体「光復会」の金元雄(キム・ウォンウン)会長の父親、金根洙(キム・グンス)氏の独立運動功績記録が虚偽である可能性が指摘された。国家報勲処の記録では、金根洙氏が1963年に大統領表彰、77年に建国褒章、90年に建国勲章愛国章を受章し、92年1月に死去したことになっている。しかし、政府が63年に「光復軍出身」の金根洙氏に大統領表彰を行った当時の功績調書には同氏が既に死亡と記録されていることが分かった。金元雄会長本人もさまざまなインタビューで63年から90年までの間に父親が表彰を受けたと主張してきた。

 本紙が23日、趙修真(チョ・スジン)議員事務所から入手した報勲処の「1963年大統領表彰者・金根洙功績調書」(管理番号8245)には、「生存作故」欄に「作故」と記されている。ところが、報勲処の報勲展示史料館の功勲録によれば、90年に建国勲章愛国章を受章した金根洙氏の死亡日は92年1月30日だ。63年の功績調書と90年の功勲録の管理番号はいずれも8245号で、報勲処は同一人物として管理している。報勲処によると、63年に大統領表彰を受けた金根洙氏は77年の再審査で建国褒章に昇級。90年には建国勲章愛国章に昇級した。問題は功勲録の内容通りならば、63年以前に死亡した人物が92年にも死亡していることだ。

 功勲録によれば、「63年の金根洙氏」と「90年の金根洙氏」は同一人物とは見なしにくい。2人の金根洙氏は活動した時期だけでなく、地域も異なる。63年の功績調書によると、金根洙氏の経歴「1939年2月 朝鮮義勇隊入隊」「1940年9月 韓国光復軍総司令部総務処勤務」「1942年10月 山西河北地区敵後方地下工作」と記載されている。ところが、90年の金年洙氏の功勲録には「1939年8月-41年3月 朝鮮義勇隊で活動」「1941年3月 光復軍編入」「1945年8月まで重慶・河南省および満州地方で特派工作員」と書かれている。

 大韓民国臨時政府の文書によると、出身地も異なる。金元雄会長は「父親が『キム・ソク』『ワン・ソク』という仮名で活動し、母親は『チョンヒ』、自分は『ワン・ウォンウン』と呼ばれた」と主張してきた。1945年12月に重慶臨時政府が作成した「韓国臨時政府職員其眷属僑民名冊」には「王碩(ワン・ソク)家属」という付記と共に「チョンヒ」「ワン・ウォンウン」という名前が記録されている。

 しかし、この文書に出身地が「平北」(平安北道)と記録されているのに対し、1990年の功勲録には金元雄会長の父親の故郷が「慶尚南道晋陽(晋州)」と書かれている。金会長によると、父親の金根洙氏と母親のチョン・ウォルソン氏はそれぞれ慶尚南道晋州、慶尚北道尚州から中国に渡り、独立運動を行った。平安北道とは何のゆかりもない。報勲処が同一人物として管理してきた63年と90年の金根洙氏は出身地、活動時期、活動地域だけでなく、死亡時期まで異なることになる。

 光復軍第2支隊出身の独立運動家の子孫で構成する長安会のイ・ヒョンジン会長(光復軍第2支隊工作組長・李在賢=イ・ジェヒョン=氏の長男)は、1963年8月14日付朝鮮日報2面の「光復軍出身大統領表彰対象者342人名簿」にも「金根洙」という人物の前に「故」という表示があるとし、金元雄氏が父親だと主張する金根洙氏は別人だと主張した。

 こうした矛盾の原因が報勲処の単純ミスである可能性もある。しかし、単純ミスと考えるには2人の金根洙氏の具体的な足取りがあまりに異なる。報勲処は「1963年に当時の国史編纂委員会から移管された功績調書は1枚だけであり、功績調書になぜ『作故』と表記されたのか経緯を把握するのは困難だ」とした上で、「その金根洙と以降に登場する金根洙が同一人物かどうか引き続き調査する予定だ」と述べた。

 趙修真国会議員(国民の力)は「歴史を正すという意味で引き続きこの案件を調査していく」と述べた。本紙は金元雄会長に電話と携帯メールで1963年に大統領表彰を受けた金根洙氏と同会長の父親が同一人物かを照会したが、回答がなかった。

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