数多くの国軍捕虜やその家族が平安南道价川郡の朝陽炭鉱で強制労働させられているのを目撃したという脱北者の証言が、4日に公開された。1960年代に高官クラスの親類が粛清された際、一家も朝陽炭鉱へ追放されたという脱北者Yさん(60)は、拉北者家族会のチェ・ソンヨン代表と最近会い、当時知り合った国軍捕虜9人の実名を挙げた。チェ代表はYさんの証言を国防部(省に相当)に伝え、生死確認をはじめとする対策の整備を求めたが、国防部側は「国軍捕虜の身元情報は個人情報保護法などにより公開できない」とした。

 北朝鮮で労働党江原道党責任書記(道知事に相当)を務めたキム・ジョンハンの親類だというYさんは、キム・ジョンハンが1960年代に分派主義者として追及・粛清された際、朝陽炭鉱に追放された。Yさんはチェ代表に「朝陽炭鉱は1955年以降、国軍捕虜、脱北者家族、戦争中の反逆者、拉致被害者など身分が最も低い人々を動員して開拓した炭鉱で、奥地中の奥地」だとし、「うちの前の家、隣の家、裏の家はいずれも国軍捕虜の家庭だった。そこの子どもたちと一緒に学校へ通い、よく一緒に過ごした」と語った。

 Yさんによると、ベトナム派兵韓国軍出身のチョン・ジュンテク下士(伍長〈ごちょう〉に相当)は1970年に北朝鮮へ来て、炭鉱で掘進工(坑道を掘削する鉱夫)として働いた。Yさんは「最初は(チョンさんが)北へ来て記者会見をやったというので亡命者と思ったが、後で分かったところでは、ベトナムで部隊の外に出たとき北朝鮮に拉致されたケースだった」と説明した。さらに「チョンさんを最後に見たのは1980年で、彼の双子の娘は6歳だった」「チョンさんは(脱北後)電話で接触した2005年にもそこで暮らしていた」と語った。チョン下士の名前は、韓国国防部が把握しているベトナム戦争中の行方不明者リストに実際に載っている。チョン下士が北朝鮮に拉致されたという事実が分かったのは初めてだ。

 6・25国軍捕虜のイ・グィセンさんについては、炭鉱の採炭工として働き、妻も国軍捕虜だったという。Yさんは「イさんの1959年生まれの息子イ・ビョンチャンも坑道で働いた」と語った。同じく国軍捕虜のク・バングさんについては「大邱出身の国軍将校だと聞いた」「妻はおらず、1960年生まれの息子ク・ビョンサムと共に暮らしていて、1980年代中盤に亡くなった」と語った。このほかにもYさんは、同じ町に暮らしていた国軍捕虜としてイ・ヒョンジェ、ミン・チェギ、ミン・ビョンオン、パク・サンリョン、キム・チャンヒョン、ソン・ギョンボクという6人の名前を挙げた-とチェ代表は伝えた。

 数万人の国軍捕虜が北朝鮮の最下層身分に属し、各種の差別を受けながら奥地の炭鉱・鉱山で子孫ともども強制労働に苦しんでいるという話は、間欠的に伝えられてきたが、こうした人々と20年近く一緒に過ごした北朝鮮人が国軍捕虜のリストやその家族関係を具体的に証言したのは初めて。北朝鮮人権市民連合などの調査によると、炭鉱に強制動員された国軍捕虜は毎日3交代で24時間石炭生産に追い立てられたという。交代勤務を終えてようやく食券が配られるが、それすらも一日の割当量(採炭工の場合、およそ10トン)を満たした場合にのみ許され、休日は1カ月に1日だった。彼らの子どもは、午前中のみ学校へ通い、午後は線路に落ちた石炭拾いに動員されるという。

 Yさんが彼らの生死を最後に把握したのは2005年だったという。クさんを除く8人が、当時も生存していたというのだ。だがそれから16年が経過した現在、彼らの生存はかなり困難な状況だ。チェ代表は「国軍捕虜問題は至急であるということを韓国政府が切に感じ、今からでも北朝鮮への生死確認要請をはじめ積極的な行動に出るべき」と語った。

ホーム TOP