話題の一冊
ミャンマー軍政のルーツには日本の「スパイ学校」があった
【新刊】ステファン・C・メルカド著、パク・ソンジン、イ・サンホ訳『影の戦士たち』(ソム&ソム刊)
1995年3月、ミャンマーで開かれた軍創設50周年記念式典に出席した泉谷達郎は、貴賓席からパレードを見守りつつプライドを感じていたはずだ。1941年に中国の海南島でゲリラ指導者として訓練した30人の青年が、ミャンマー独立と軍創設の主役になったからだ。初代国防相を務めたアウンサンや国防相・大統領として30年近く権力の座にあったネ・ウィンは「30人の志士」のメンバーだ。
■2500人の要員を輩出したスパイ学校
泉谷は、1938年4月に日本が秘密情報要員を養成するためつくった「陸軍中野学校」(前身は防諜〈ぼうちょう〉研究所)出身だ。東京・中野区に位置したこの学校は、44年9月に開設された二俣分校出身者を合わせて、1945年8月までにおよそ2500人の要員を輩出した。『影の戦士たち』は、これら情報要員の活躍を明らかにした。中野学校出身者らは満州や中国、インド、東南アジア、南太平洋、さらにはラテンアメリカにまで散らばって情報を集め、現地の独立運動勢力を支援し、ゲリラ部隊の訓練や指揮まで務めた。「アラビアのロレンス」として知られる英国の情報将校、トーマス・ロレンスが彼らのモデルだった。ガンジー、ネルーと肩を並べるインドの民族指導者スバース・チャンドラ・ボース、インドネシアのスハルト、ミャンマーのアウンサン、ネ・ウィンなど、名だたる指導者らが彼らの支援を受けたり、あるいは協力したりした。
■シンガポール、オランダ領東インドの占領
日本が1942年に英領シンガポールとマレー半島を占領する上で、中野学校出身の情報要員が果たした役割は大きかった。責任者だった藤原岩一少佐の名を取った「藤原機関」(F機関)は、中野学校出身者6人を中心とした。陸軍最高の宣伝専門家である藤原は、日本の侵略戦争を「東南アジアとインド大陸の諸民族を西欧の圧政から解放する戦争」として描写することが効果的だと考えた。彼らはバンコクに本部を置いた「インド独立連盟」のプリタム・シンを抱き込み、大英帝国インド軍将兵を降伏させるよう説得した。藤原機関の工作の下、42年2月までに5万人のインド兵士が降伏した。
石油不足は日本のアキレス腱(けん)だった。当時世界最大の油田地帯に挙げられていた、オランダ領スマトラ島のパレンバンを掌握しなければならなかった。星野鉄一少尉は、中野学校でインドネシアの公用語であるマレー語を学んだ。42年2月14日、空挺(くうてい)部隊と共に降下した星野少尉は、製油施設を守っていたインドネシア軍に「オランダ軍だけが日本軍の敵だ。われわれはインドネシア人の友」と叫んだ。日本はオランダ軍が製油施設を爆破する隙を与えず、施設を確保した。
戦争当時、英領ビルマは連合国が蒋介石政権に物資を送るルートだった。責任者である鈴木敬司大佐の偽名(南益世)にちなんだ「南機関」は41年後半、ビルマに武器や要員を送り込むゲリラ作戦に着手した。中野学校を卒業したばかりの山本政義中尉ら5人が中心だった。南機関が訓練したアウンサンはビルマに潜入し、3万人近い兵力を擁するビルマ独立義勇軍の指導者として台頭した。しかし日本の軍部はビルマを軍政下に置いた。怒ったアウンサンは日本に反旗を翻した。連合軍の攻撃とビルマ人の反乱に直面した日本は手を挙げるしかなかった。
■戦後の「影の戦士」
中野学校出身の情報要員らは敗戦後、日本の生存にも寄与した。彼らが確保した満州やシベリアの地形情報は占領者である米軍との交渉で有用な「てこ」として活用された。48年11月、マッカーサーの司令部は清津、元山、平壌付近の地域に要員を投入し、ソ連軍の現況を偵察した。このチームに、少なくとも1人の中野学校出身のベテランが含まれていた。仁川上陸作戦でも、中野学校を支援した研究所の出身者らが作った北朝鮮軍の偽装制服や偽造文書が、潜入作戦の必須の品として使われた。影の戦士たちは政界や企業、社会団体でも猛烈な活躍を見せた。
中野学校出身者で最も有名な人物は、1974年3月にフィリピンのルバング島で見つかった日本軍最後の敗残将兵、小野田寛郎少尉だろう。小銃をしっかり握って背のうをかつぎ、「気を付け」の姿勢でかつての上官の前に立ち、任務中止命令を受ける写真が断然目を引く。国民の英雄として帰還した小野田少尉は、戦後日本で希薄になりつつあった愛国心と使命感の象徴へと浮上した。
中野学校が知られるようになったのは、1966年封切りの映画『陸軍中野学校』のおかげだ。映画には「優れたスパイ1人は2万人規模の正規1個師団に匹敵する」というせりふが出てくる。国益のため献身する情報要員の活躍を描いたこの映画は、高度成長で自信を回復した日本社会で愛国ブームをあおった。中野学校出身者らは「西欧列強を相手に東南アジアの民族解放戦争を遂行した」と主張する。だが日本の本心は、西欧列強を追い出し、その地位に成り代わろうというものでしかなかった。
本書を読んでみると、日本が侵略戦争を繰り広げる中で展開した情報戦の規模と深みに驚かされる。中野学校には東京帝国大学、早稲田大学、慶応大学出身のエリートが集まった。情報要員を養成していながら、当時流行の長髪やスーツ姿を認め、絶対服従ではなく柔軟性と自律性を要求した-という点も興味深い。それでこそ合理的な判断が可能、という理由からだった。こうした雰囲気の中で訓練を受けた情報要員は、バンコクやサイゴン、ラングーンやジャワ島を駆け回り、軍国主義日本の利益のため戦った。
中野学校の情報要員はこうして積み上げた情報とネットワークにより、戦後日本がインドや東南アジアで影響力を拡大することに寄与している、との指摘も興味深い。今ではミャンマーと呼ばれる旧ビルマの軍政は中野学校の遺産で、日本の対インド外交においても中野学校出身者が構築したネットワークが働いているのだ。世界で唯一、日本を見下している韓国人だけが知らない、日本の隠れた力だ。著者のステファン・メルカドは元CIAアナリストで、アジアの専門家でもある。460ページ、2万5000ウォン(約2450円)
金基哲(キム・ギチョル)学術専門記者