日帝が1902年、歴史教科書の体制を「日本史」「東洋史」「西洋史」の3史分科とした際、韓国の歴史を東洋史ではなく日本史に編入していたことが判明した。1910年の韓日強制併合(庚戌〈こうじゅつ〉国恥)が行われる8年前、既に日帝の「歴史侵略」は完了していたのだ。

 李泰鎮(イ・テジン)ソウル大学名誉教授(元国史編さん委員長)は最近、天理大学が発行した第70回朝鮮学会の論文集に載った講演録「明治日本政府の歴史教育政策と朝鮮史」において、このような事実を明らかにした。

 李名誉教授は、第2次日韓協約(乙巳勒約〈いっしろくやく〉)の違法性を明らかにする資料を探している過程で、「一体日本人はなぜこんなことをやったのか」という疑問を持ったという。「韓日併合の当時、日本メディアは不都合そうな気配もなく『当然やるべきこと』という論調だった。何かおかしいので、東京の国会図書館へ行ってその直前の歴史教科書を調べ始めた」

 その結果、那珂通世(1851-1908)という人物に注目するようになった。国学者にして植民史観の元祖的な学者に挙げられる那珂は、1894年の日清戦争勃発直前、高等師範学校の教員職にあったとき、歴史教育において外国史を「東洋史」と「西洋史」に分かつことを提案した。

 那珂の提案は、後に日本の歴史科目が自国史たる日本史および東洋史・西洋史の「3史」に改編される契機となり、その後、京都帝国大学(1906)と東京帝国大学(1910)に東洋史学科が誕生した。日本の中学校の教科書は、これよりも早く東洋史・西洋史に分けられた。文部省の歴史教科書執筆指針に基づく「3史」教科書は、那珂の提案からわずか8年後の1902年にその枠組みを備えたのだ。

 そうした中、李教授が当時の日本の教科書42種類を分析した結果、当然「東洋史」に含められるべき韓国史が、とんでもないことに「日本史」に属しているという事実を知った。『本邦史綱』(1900)、『日本歴史教科書』(1902)、『統合歴史教科書』(1907)などはいずれも、西暦3世紀に神功皇后が韓半島を「征伐」したという『日本書紀』の記録を目次に収録し、以後の韓半島の歴史は「韓土の変遷」「韓土の反乱」「百済・高(句)麗の滅亡」「渤海の入貢」などとして、全て日本史の中で日本に服属した国の歴史のように記述した。

 神功皇后の「征伐」の物語は、古代日本が韓半島を支配したという、いわゆる「任那日本府説」の母体となったが、今では日本の学界でも伝説あるいは捏造(ねつぞう)とみている。しかし当時の日本は、これを「定説」と受け止め、「日本史」に収録していたのだ。

 「その結果、『韓半島の歴史は既に古代において日本に服属した歴史であって、中途離脱を正さねばならない日本史の一部』になった」と李教授は語った。こうした歴史記述の中では、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」(文禄・慶長の役)もまた「正すための試み」となる。「1912年に出た教科書では、韓国侵略の大詰めに当たる1910年の韓日併合について『その間の誤った韓日関係が元に戻った』と説明しました。歴史学という学問が侵略の当為性を裏付けてやったのです」

 李教授は「歴史歪曲(わいきょく)が実際の侵略の前段階になったという点を、今も警戒すべき」とし「こんにちの日本の極右は当時の歴史認識から大きく変わっていないという点もまた、注目する必要がある」と語った。

兪碩在(ユ・ソクチェ)記者

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