数年前、慶州玉山書院を取材で訪れたとき、講堂の入り口で立ち止まったのを覚えている。建物の軒に掛けられている扁額の文字に圧倒されたためだ。秋史・金正喜(チュサ・キム・ジョンヒ)が書いたと言われる「玉山書院」の4文字が強いインパクトと共に建物全体を覆い尽くしていた。1839年に火災で建物が全焼したことで再建され、王が再び下さった扁額だ。53歳の秋史は、真っ黒の墨汁で80センチの半紙4枚に1文字ずつ力強く書き下ろした。

 この原本が国立全州博物館の「書院、善良な人を高め、学者を育てる」と題した特別展に展示されている。朝鮮時代の私立学校である書院のユネスコ(国連教育科学文化機関)世界遺産登録1周年を記念して開催される展示だ。玉山書院だけでなく、紹修書院、陶山書院などで保管されている、当代の名筆が書き下ろした扁額が展示され、壮大な大字筆画の世界を満喫することができる。明宗が直筆で書き下ろした紹修書院の扁額は上品で気品にあふれ、石峰(ソクボン)ハン・ホが手掛けた陶山書院の扁額の筆致は鋭く、スピード感にあふれている。

 扁額はすなわち建物の顔だ。宮殿、寺院、楼閣の建物にはほぼ例外なく扁額が掲げられている。王をはじめ、当代を代表する知識人や名筆が心血を注いで書いたため、扁額にはその時代の精神や価値、芸術の神髄が込められている。光化門の扁額の文字を巡ってこれまでさまざまな主張が繰り広げられてきたのも、「景福宮正門の顔」という象徴性がそれだけ強いためだ。

 だが、最近目を疑いたくなる扁額が新たに掲げられた。今年5月29日に国立大田顕忠院に掲げられた「顕忠門」の扁額だ。国家報勲処(政府部署)は、大田顕忠院の竣工を記念して故・全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領が1985年に書いた扁額を下ろし、安重根体で構成した扁額に新たに変更した、と発表した。文在寅(ムン・ジェイン)大統領は先月ここで開かれた第65回顯忠日記念追悼式典で「国立大田顕忠院の扁額を安重根(アン・ジュングン)義士の書体に変えたことは非常に意味深い」とし「安重根義士の崇高な精神が全ての愛国の魂と共にあるものと信じる」と述べた。

 そもそも「安重根体」とは何なのか。昨年、安重根義士の義挙110周年を記念して、安重根義士記念館と韓国著作権委員会が制作した書体だという。安重根義士記念館によると、安義士が書いた「丈夫歌」のハングル書体から型を抜粋して開発された。「丈夫歌」は、安義士が義挙の3日前に挙事に対する思いを込めて作ったもので、直筆の原本は国内には存在しない。記念館の関係者は「日本の検察が安義士を取り調べる際、A3原稿用紙を渡して『丈夫歌』の内容を書かせた。安義士は左側にハングル、右側には漢文で書いた」とし「私たちが持っているのは原本を撮影した写真資料」と説明した。この写真からハングル文字を抽出して安重根体を開発したというのだ。

 しかし、「丈夫歌」に記されたハングルはわずか170字程度にすぎない。代表書体として開発するには一次資料が非常に不足しており、他の漢文の遺墨から湧き出る迫力と気概もあまり感じられない。美術史家のファン・ジョンスさんは「紙1枚に書かれた文字が幾つか残っているからと言って代表書体を作成したのも無謀な取り組みだが、さらに深刻なのはそのようにして開発された小さな文字を専門家の諮問もなしに扁額として掛けたことだ」という。扁額には大きな字を別途に書くのが原則だが、相性のあまり良くない文字を組み合わせることで奇怪な扁額が誕生した、というのだ。

 報勲処の関係者は「安義士は国を代表する独立運動家であり、今日の軍人精神のかがみとなる偉人であるため、安義士の字体を盛り込むことで安重根精神をたたえようとした」と説明した。子音と母音をそれぞれ分解して組み合わせた「顕忠門」の3文字から、一体どんな躍動感や機運が感じられるのか、何度見てみてもよく分からない。

ホ・ユンヒ文化部次長

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