1959年から25年間にわたった北送事業、北日合同の国家犯罪

慰安婦と徴用工には怒りをあらわにしながらも北送された海外同胞問題にはなぜ沈黙を決め込むのか

 北朝鮮の故・金日成(キム・イルソン)主席が還暦を迎えた1972年に朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が準備した贈り物には「民間人200人」が含まれていた。朝鮮総連傘下の朝鮮大学校の男女200人の学生を還暦祝いの代表団として北朝鮮にプレゼントしたのだ。北朝鮮行きを願う学生など、ただの一人もいなかったという。教員たちが「社会主義の祖国建設のリーダーになれ」と背中を押したのだ。リストに上った200人はまさに「生きた供え物」だった。在日韓国人の資金をむさぼり、むやみな発言ができないようにするための「人質」でもあった。結局誰も戻ってくることができなかった。供え物となった彼らを記憶にとどめる者など今となっては誰もいない。朝鮮大学校で23年間にわたって副総長を勤めたパク・ヨンゴンさん(92)が2007年にNHKに出演してこの件に触れたことで、彼らの存在が明るみに出た。「日々ざんげの思いだ。生き地獄に弟子たちを送ってしまった罪を支払わなければならないと思った」

 1959年12月14日、975人の在日韓国人を乗せた北送船が日本の新潟港から出発したのを皮切りに始まった北送事業。その後1984年までの25年間で、延べ180回にわたって実に約9万3000人の人々が「地上の楽園」を約束されて日本を後にした。そのほとんどが南韓(現在の韓国)の出身で、北朝鮮には血縁も知人もいない人々だった。彼らを待ち受けていたのは、日本での民族差別をはるかに超える階級差別と人権侵害だった。「不穏分子」「日帝スパイ」と呼ばれては弾圧を受け、多くの者が強制収用所に送られ、やがて消息を絶った。1990年代の大飢饉(ききん)では、さらに残酷な差別と監視を受けながら、飢えの中でこの世を去っていった。

 あれから60年、民団(在日本大韓民国民団)中央本部は11月13日、「北送60周年」歴史的検証特別シンポジウムを開き「北送は『事業』ではなく『事件』であり、北朝鮮と朝鮮総連による犯罪」との立場を表明した。日本政府に対しては、拉致問題と同じく北送問題にも声を上げるよう訴えた。北送事業が始められた当時、北朝鮮は韓国戦争(朝鮮戦争)による極度の労働力不足を解消するため、そして日本政府は社会の最下層民である在日韓国人に対する治安負担と財政負担を減らすために、両国政府は互いに手を取り、背中を押し合った。これに関わった日本人たちは、金日成主席が率いる北朝鮮がまさか生き地獄であるとは夢にも思わなかった、と主張する。しかし、現在公開されている国際赤十字社の文書には、日本政府の偽りと欺瞞(ぎまん)だけが赤裸々に記載されている。日本政府が北送を決めた当時の首相である故・岸信介氏は、安倍晋三首相の母方の祖父に当たる。文書によると、故・岸元首相は「南朝鮮の反発を避けるために、国際赤十字社の協力が絶対的に必要だ」と発言したという。「北送事業」に人道主義というオブラートを着せるためだった。小泉純一郎元首相の父である故・小泉純也議員(当時自民党)は「在日朝鮮人帰国協力会」の代表委員の資格で北送をたき付ける中心的役割を果たした。日本の左派知識人と全てのメディアが相づちを打った。初の北送船が北朝鮮に向けて出港してすぐに手紙が途絶えるなどの事態が発生したものの、日本政府はむしろ北朝鮮政府に北送の規模を1週間に1000人から1500人に増やすよう要請している。

 在日韓国人の北送は、冷戦時代の自由陣営から共産陣営に異民族を追放した唯一のケースだ。「人種の清掃」と何ら変わらない国家犯罪との指摘もある。終戦前の日本軍による慰安婦や徴用工の問題には怒りをあらわにしながらも、戦後に行われた9万3000人の在日韓国人の北送については、なぜ口を開こうとしないのか。韓国は、国家的な「恥」の記憶を葬り去ってしまった。日本の過去史について問題視しようとするのなら、在日韓国人の北送について反省と謝罪を要求するのが先決ではないか。しかし、今ではこれもどうしようもないことだ。世界最悪の独裁者を手厚く接待するために、韓国へ帰化する意思を表明した脱北青年2人を生きた供え物にでもするかのように強制送還する集団が権力をほしいままにしている。在日韓国人の北送問題解決などは、期待することさえままならないのだ。

チョン・グォンヒョン論説委員

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