「眉間に北朝鮮軍の銃弾が当たって即死した同僚の、血にまみれた顔が生々しく浮かびます。睡眠薬なしには眠れません」

 11月8日午後、ソウルの光化門で会ったカン・ファヒョンさん(86)など9人の老人は、それぞれ震える声で51年前の「あの日」を語った。1968年、国は彼らを「トッケビ(鬼)部隊」と命名した。韓国初の北派工作員部隊。与えられた任務は「金日成(キム・イルソン)の首を取り、主席宮を爆破しろ」。

 6・25戦争中の1951年に韓国軍の諜報(ちょうほう)部隊が創設されて以来、94年まで養成された北派工作員の数はおよそ1万3000人と推定されている。トッケビ部隊の隊員らは、こうした北派工作員の中で初めて部隊名や隊員の実名などを明かし、本紙とのインタビューに臨んだ。彼らは「叙勲で私たちの若い日々を認めてほしい」と要求した。

 彼らが所属していた国軍9×××部隊は2017年、彼らの工作についての問い合わせに「政府叙勲褒賞にふさわしい」とだけ公式に回答し、具体的な内容は公開しなかった。当時の隊員の証言や資料によると、彼らが勤務していた「トッケビ部隊」は、68年に金新朝(キム・シンジョ)一味が韓国大統領府(青瓦台)潜入を試みた「1・21事態」(青瓦台襲撃未遂事件)に報復するため作られた。大統領府から「トッケビ」「ボンゲ(稲妻)」「パクチュ(こうもり)」「タクポル(アナバチ)」という四つの北派特殊部隊の創立指令が下り、同年2月にまずトッケビが創設された。

 彼らは「最初は、金日成の首を取りに行くんだろうとは夢にも思わなかった」と語った。カン・ファヒョンさんら将校13人は「特殊工作員訓練」という名目だけで強制転属させられた。兵士およそ100人は「国の仕事をやってほしい」「多額の報奨金をやる」「前科をなくしてやる」などの話だけを聞いて志願した。当時ダフ屋をしていたというハン・ヨンモさん(73)は「通行禁止令に引っ掛かり、捕まった警察署で『軍隊に行って少し危ない仕事を1回やれば前科も消えて金も稼げる』というので同意した」と語った。チョン・ジャンチョンさん(75)は「隊員の大多数は親のいない孤児で、家庭の事情が苦しい20代だった」と語った。

 そうして、悪夢のような5カ月の北派訓練が始まった。朝早く目を覚ますなり射撃、戦車の爆破、敵軍の拉致などの訓練を受けた。チャン・ビヒョンさん(71)は「あまりにつらくて逃げても、捕まったらむち打ちに、金串で肛門を刺す罰を受けた」と語った。イ・チャンムンさん(71)は「1日に手のひら半分くらいの大きさのおにぎりしか配られず、自分で捕まえて食べたヘビやトカゲだけで200匹にもなる」と語った。外部との接触は徹底して禁じられた。

 苦しい訓練を終えても、肝心の主席宮へ行くことはできなかった。カン・ファヒョンさんは「作戦着手直前の68年8月、米国のリンドン・ジョンソン大統領が『北に拿捕(だほ)された米海軍の諜報艦プエブロ号の乗組員が無事に帰還するまで作戦中止』を要請したらしい」と語った。その代わり、翌年から隊員らは「トッケビ工作」という名で計9回にわたり北派作戦に投入された。「北朝鮮の非武装地帯パトロール兵9人射殺」「敵のGP(監視哨所)爆破」「敵軍の兵器鹵獲(ろかく)」などの任務を遂行し、その過程で大勢が死亡または負傷した。

 隊員の大多数は、71年8月に追い出されるかのように強制除隊となった。同月23日、北派作戦取り消し後に放置されたことへ不満を抱いた「空軍684北派部隊」の隊員が青瓦台に突進した、いわゆる「実尾島事件」が契機だった。イ・マンウさん(71)は「除隊後は約束の報奨金はおろか、近くの警察署・情報機関などに『忌避者』として登録されて10年間監視がつきまとい、きちんとした就職も難しかった」と語った。

 彼らは15年9月から、青瓦台と国防部(省に相当)へ公的な叙勲を請願してきた。17年7月に初めて、軍当局から前向きな返事が来た。国軍9956部隊が「功績の事実確認の結果、政府叙勲褒賞にふさわしい」と回答した。それが最後だった。翌年9月からは「叙勲は政府の義務事項ではない」「功績内容が事実であっても、停戦協定・国際法違反の可能性があり不適切」などの返事ばかりが続いた。

 チャン・ビヒョンさんが語った。「息子が小さいころ、私に『お父さんは罪人なの?』と尋ねた言葉がまだ胸に刺さっています。祖国に献身した私たちの失われた時間を認めてもらいたいのです」

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