話題の一冊
徴用・慰安婦・独島…研究者が見た『反日種族主義』の3大争点
(1)日帝下強制動員「1944年以前の渡日は自発的選択」「玄界灘を渡る前に40%が脱出」
(2)日本軍慰安婦被害者「軍・警が拉致したという主張はうそ、収入も悪くなく、選択の自由があった」「河野談話も『強制動員』認定、インフレを考慮するとひどい収入」
(3)独島領有権「朝鮮の地図は宇山島の位置がばらばら、1905年に日本が編入したとき抗議もせず」「明治政府が『独島は朝鮮領』と確認、1905年は外交権を剥奪されて抗議できず」
7月初めに出版された書籍『反日種族主義』は、日帝下強制動員は「虚構」であって、慰安婦被害者は性奴隷として苦しめられたのではなく選択の自由があった-という挑発的な主張を繰り広げた。このところ「反日」の雰囲気が高まる中、同書はむしろ一段と注目を集めている。8月中旬から3週連続で、大手書店「教保文庫」の週間ベストセラー総合首位になったほどだ。『反日種族主義』が提起した日帝下強制動員、日本軍慰安婦被害者、独島領有権という3大争点について、日帝強制動員アンド平和研究会のチョン・ヘギョン研究委員、東北アジア歴史財団のト・シファン日本軍「慰安婦」研究センター長、チェ・ウンド独島研究所長など専門研究者らが紙上論争を繰り広げた。
(1)日帝下徴用等強制動員
-『反日種族主義』(以下『反日』):日帝時代に憲兵・巡査が朝鮮人を強制的に連れていき、賃金も支払わず奴隷のように働かせたという「強制動員」は虚構。強制的な性格の「徴用」は1944年9月から45年4月までの8カ月間実施しただけで、人員も10万人以下だった。39年9月からの「募集」、42年2月から行われた「官あっせん」は、志願者の自発的選択だった。民族差別のため朝鮮人は日本人より賃金が低く、より危険な作業をさせられたというのは歴史の歪曲(わいきょく)。当時、朝鮮人青年にとって日本は一つの「ロマン」だった。
-チョン・ヘギョン日帝強制動員アンド平和研究会研究委員:強制動員に関する研究が不足していたころ、一部研究者や活動家らが被害者の証言を無批判に受け入れ、憲兵・巡査が朝鮮人を強制的に連れていったかのように表現したのは誤り。だが、憲兵・巡査が捕まえていくだけが強制動員ではない。日本は38年、アジア・太平洋戦争遂行のため国家総動員法を施行した。法律に基づいて行われたが、日本も加入した国際労働機関(ILO)協約に違反する強制労働だった。日本政府も2015年7月に軍艦島など「明治産業革命遺産」23カ所を世界文化遺産に登録する過程で朝鮮人の強制労働を認めた。佐藤地・駐ユネスコ(国連教育科学文化機関)日本大使は「一部施設で、数多くの韓国人が自らの意思に反して(against their will)動員され、過酷な条件で強制的な労役(forced to work)を行った」と表明した。翌日、日本の外務省は強制性を否定したが、取り消すことはできない。賃金が高く、労働条件が良かったのなら、なぜ動員された朝鮮人が玄界灘を渡る前に40%も脱出したのか。ごく一部の資料だけをもって一般化して語ることができるのか。
(2)日本軍慰安婦被害者
-『反日』:憲兵や警察が街角で未婚女性を拉致したり、洗濯場の女性を連行して慰安所に連れていったという通念は真っ赤なうそ。人身売買や就職詐欺はあったが、国家権力による強制連行はなかった。慰安婦は徹底した監視を受けて賃金も支払われずに性奴隷として働いたのではなく、相当な選択の自由があり、収入も悪くなかった。
-ト・シファン東北アジア歴史財団日本軍「慰安婦」研究センター長;日本政府は1993年8月に発表した河野談話で、日本軍慰安婦の強制動員を認めた。20カ月にわたる政府調査で出た結果だ。日本軍が慰安所の設置と管理、慰安婦の移送へ直接・間接に関与したとした。慰安婦の募集は軍の要請を受けた民間業者が主動したが、甘言、強圧など被害者の意思に反して行われるケースが多く、場合によっては官憲などが直接加担したと表明した。慰安所の生活も「強制的状況下での使役など残酷だった」と認めた。ビルマ(現ミャンマー)で働いた慰安婦被害者(文玉珠〈ムン・オクス〉)の貯金記録(2万6551円)を根拠に「収入が高かった」と主張するのも誤り。ビルマの戦時物価インフレ(1800倍)のため、実際には20円程度の価値にすぎず、送金も自由ではなかった。それすらも終戦で紙切れとなった。
(3)独島領有権
-『反日』:韓国の独島領有権主張は歴史的根拠が希薄。朝鮮王朝時代の地図では宇山島の位置がばらばらに描かれていたほどで、独島に対する領有認識はなかった。1905年に島根県が独島を編入したときも大韓帝国はこれといって抗議しなかった。
-チェ・ウンド東北アジア歴史財団独島研究所長:16世紀の地図を現代の地図と同じ視点で解釈するのは無理。朝鮮王朝時代の地図を見ると、宇山島は17世紀末の安竜福(アン・ヨンボク)事件を契機として鬱陵島西側から東側へ場所を移す。宇山島に対する認識が具体化していることを意味する。『東国文献備考』(1770年)などには「鬱陵と宇山はいずれも宇山国の地で、宇山とはまさに倭人の言う松島(独島)」と記録されている。日本が1905年に独島を領土に編入すると、この事実を把握した鬱陵郡守が政府に報告した。参政大臣は指令3号を下し、「独島領地うんぬんする説は全く根拠がない」ということと、「再び調査して報告すべきこと」を指示した。だが「乙巳勒約(いっしろくやく)」で外交権を剥奪された朝鮮は日本に抗議できなかった。何より、1877年に明治政府の最高国家機関である太政官が「鬱陵島と独島は日本とは関係ない場所で、朝鮮領」と確認した。