▲朴海鉉(パク・ヘション)文学専門記者

 日本の女性詩人・茨木のり子(1926年-2006年)の詩集『おんなのことば』を最近読んだ。ソウル女子大学日本文学科のソン・ヘギョン教授が翻訳した。茨木のり子の詩集は既に何度も韓国語で出版されているが、ソン・ヘギョン教授は茨木のり子との縁を忘れられず、新たな訳で出したという。茨木のり子は1957年に『わたしが一番きれいだったとき』という詩を発表して有名になった。日本の軍国主義が起こした太平洋戦争時に青春時代を過ごしたことを悔い、憤りを感じた詩人の回想が込められている。同時に、戦禍に傷付いた共同体の痛みを女性の個人的な言葉で切実に描き出したことから、国際的な反戦文学となった。

 「わたしが一番きれいだったとき/街々はがらがら崩れていって/とんでもないところから/青空なんかが見えたりした」と始まるこの詩は、「わたしが一番きれいだったとき/誰もやさしい贈物を捧げてはくれなかった/男たちは挙手の礼しか知らなくて/きれいな眼差だけを残し皆発っていった」と戦争に奪われたロマンの時代を惜しんだ。茨木のり子は韓日の文学交流でも先頭に立った。50歳になる年に韓国語を学び始め、尹東柱(ユン・ドンジュ)をはじめとする韓国の詩人の作品を翻訳し、そのおかげで尹東柱の詩は日本の一部の教科書に掲載された。彼女は『隣国語の森』という詩に「愛(サラン)/きらい(シロヨ)/旅人(ナグネ)」と書き、韓日間の愛憎を行き来する旅人の心情により2つの言語を比較した。「大辞典を枕にうたた寝をすれば/『君の入ってきかたが遅かった』と/尹東柱にやさしく詰(なじ)られる」とも書いている。

 茨木のり子のハングルに対する愛に思いをはせているうちに、別の日本人女性詩人を思い出した。ソウルで韓国語を学び、1993年にハングルで詩集を出した詩人・斉藤真理子(59)だ。斎藤真理子は現在、日本で韓国文学翻訳家として活動している。彼女が出したハングルの詩集は絶版になったが、昨年の『たったひとひらの雪』という新しい題名でよみがえった。彼女は韓国語の「ヌンソンイ」(ヌン=雪、ソンイ=ひとまとまり、合わせて雪のひとひらの意)という言葉がとても美しいと思い、『ヌンボラ(吹雪)』という詩を書いたそうだ。「ほかのすべてのヌンソンイととても似ているたったひとひらの雪」と歌った彼女は、「日本語にはヌンソンイに該当する固有語がない。『ソンイ』の『ン』(ng音)が好きで、ヌンではなくヌンソンイの一つ一つの存在感、その一つ一つすべてが好きだった」と語った。韓国語の「スムギョル」(息づかい・息吹)という言葉もとても好きで、いつかその言葉で詩を書きたいそうだ。

 茨木のり子の詩『わたしが一番きれいだったとき』は小説家コ・ソンオクの短編作品の題名に、斎藤真理子の詩『ヌンボラ』の中の言葉は小説家ウン・ヒギョンの短編作品の題名になった。韓日間の文学ではこのように穏やかな交流が行われてきた。最近の外交的な韓日関係は最悪だと言われるが、文学の交流はこれまで以上に活発だ。文学が重要な緩衝地帯の役割をしているとすら感じる。日本の小説が韓国のベストセラーの上位を占めるのは昨日、今日のことではない。韓日の出版に関しては不均衡が指摘されることもあったが、韓国の読者にとっては選択の幅が広がり、日本文学の多様性が韓国文学に新鮮な刺激を与えている。だが最近は新たな状況も生まれ始めている。韓国人作家チョ・ナムジュのフェミニズム小説『82年生まれ、キム・ジヨン』が昨年12月に日本で出版されて以降、これまで14万部以上売れるほど大きな反響を呼んでいる。おかげで韓国文学の翻訳も増えた。

 日本の早稲田大学で10年間講義を持った経験のある詩人キム・ウンギョ(淑明女子大学教授)に韓日関係と文学の役割について尋ねた。彼は「政治が極端な方向に走るのを防ぐには、韓日文学の小さな交流を細胞のように増やしていくしかない」と答えた。隔年で開かれてきた韓日クリスチャン作家の集まりをはじめ、日本の大学や書店での文学交流を活発にすべきだということだ。今後は尹東柱と茨木のり子を比較する集まりが企画されているそうだ。先日、東京の大型書店に行ったところ、『82年生まれ、キム・ジヨン』が人気になって以降、韓国文学コーナーが広さ約20坪に拡張されていて驚いた。

 日本の人気小説家・村上春樹は2012年に日本と中国の間で領土争いが発生した時、両国政府に向かって「安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。(中略)論理は単純化され、自己反復的になる。しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ」と批判した。最近の韓日政府指導者たちにも全くもって当てはまる忠告だと思う。文学は世界を単純な論理で裁断しない。

朴海鉉(パク・ヘション)文学専門記者

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