韓国大統領府(青瓦台)は、金起式(キム・ギシク)金融監督院長の国会議員時代の外遊について、「適法だという結論を下した」と表明した。秘書室長から検討を指示されたチョ・グク民情首席秘書官による判断だという。翌日、野党は金院長を収賄の疑いで検察に告発した。告発もない段階で青瓦台が「適法」判断を下した。そして、報道官を通じ、それを国民に公表した。

  民情首席秘書官は大統領の法律面でのブレーンだ。そして、実態としては警察や検察、国家情報院などの捜査機関の上に君臨している。大統領が握る飴とむちのうち、むちの執行を代行する役割を担っているわけだから当然だ。しかし、これまで民情首席秘書官の行動が行政府の権限である「公務員の誤りの是正」から逸脱することはまれだった。現在、民情首席秘書官は合法か違法かを判断する司法機能まで行使している。先ごろ、民情首席秘書官が立法権に属する憲法改正案を発表した際にも同様の印象を受けた。なぜ権力が入れ替わるたびに民情首席秘書官の干渉範囲が広がるのか不思議だ。

 金融監督院長の任免は大統領の権限だ。任免判断にはその人物の行ってきたことに対する法律的検討が必須だ。それについて、「司法に対する越権と言えるのか」との批判もあろう。それには同意する。しかし、その結果が報道官の口から発表されるとなれば話が違ってくる。どんな判断を下すにせよ、「青瓦台は手続き上問題がないとみているが、適法かどうかは司法機関に判断を任せる」と言っておけばよかった。にもかかわらず、民情首席秘書官による「適法」判断を公表した。その瞬間、民情首席秘書官は事実上の司法機能を行使したことになる。

 中世の欧州に存在した免罪符はあの世で通用する証文だ。しかし、現代韓国で青瓦台が与える免罪符は現世で大きな力を発揮する。検察は野党の告発状を無視せざるを得ないだろう。世論の圧力で無理に捜査を進めたところで、まともな捜査はできないはずだ。起訴に持ち込んでも嫌疑は不十分だろう。結局裁判所もその起訴状に基づく判断しかできない。青瓦台による発表以降、政府の雰囲気も変わったという。「もう終わった」として、金院長に背を向けた人が再び集まり始めているという。韓国はそんな社会だ。そんな社会であることを知っているからこそ、青瓦台は「適法」判断を公表したのかもしれない。

 文在寅(ムン・ジェイン)大統領が最も嫌っていたのはそういう社会だった。大統領は検察が政治権力と癒着し、立法、行政だけでなく、司法にも干渉してきたことを憎悪してきた。沈む権力を捜査し、浮上する権力には目をつぶる検察の捜査権乱用が法治主義を崩壊させたと主張していた。検察が権力を警察に一部移譲したからといって、改革は完成しない。政治権力が民主的であってこそ、検察の権力は悪用されない。民主的政治権力がまず、「検察権力のコントロール」という誘惑を捨て、「検察権力のけん制」に忠実になってこそ、正義が成り立つと大統領は考えた。それは正しい見解だ。大統領の著書『検察を考える』を筆者はそういう脈絡で読んだ。

 大統領は今、政府を「民主的政治権力」だと考えていることだろう。それならば、青瓦台の「適法」発表は捜査権力に対する「コントロール」なのか、「けん制」なのか。実際そういう二分法には意味がない。どんな意図であれ、青瓦台報道官の口から出た瞬間、「適法」発表は韓国社会で免罪符として作用し、捜査機関をコントロールする。検察と警察は凍りつく。2年前にメディアが禹柄宇(ウ・ビョンウ)元民情首席秘書官を批判した時もそうだった。青瓦台が「腐敗既得権勢力と左派勢力による禹柄宇たたき」だという陰謀論を匿名の形で流した。その言葉が検察による捜査権行使をどういう形で歪めたかよく分かるはずだ。どんな結果にたどり付いたかも記憶にあるだろう。

 今回も与党から陰謀論が飛び出している。「金融マフィアと保守メディアが金融改革を挫折させることを狙っている」というものだ。そんな人物がいるならば、大統領は警戒すべきだ。ただ、大統領自身が陰謀論を信じ、青瓦台の発表がその結果だとすれば全く別次元の問題だ。しかし、検察の司法機関化をあれほど批判していた大統領が青瓦台の司法機関化をリードし、大韓民国の法治をねじ曲げるはずはない。大統領の初心を信じたい。

 金起式金融監督院長をめぐる論争は簡単な問題だ。監督対象の機関のカネによる海外渡航が公務だったのか、海外旅行だったのか。海外旅行ならばそれが賄賂に当たるのか否か。女性のインターンが同行したことが社会の常識か否か。院長自身の説明がうそかどうかだ。過去には同様の問題で起訴され、有罪になった政治家がいる。判例があれば、今回も司法の判断に任せればよい。そんな人物を金融監督院長として据え続けるかどうかは青瓦台の一存だ。ただ、民情首席秘書官の判事ごっこで大韓民国の司法まで揺るがさないでもらいたい。

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