「三田渡の恥辱」は380年も昔の事件だが、これは今もなお韓国人のプライドを大きく傷つけている。秋夕(中秋節、今年は10月4日)連休の間に丙子の乱(1636-37年、清が朝鮮を制圧した戦争)を題材とした映画『南漢山城』の観客動員数が最も多かったのもそのためだ。非常に高い壇上に座った清の皇帝ホンタイジの前で、3回膝を突き9回頭を地面に付けさせられ、額に土が付いた仁祖の姿に観客は悲哀を感じたことだろう。

 東アジアの覇権をめぐる争いが激しくなり、満州族が建てた新興国の清が明を圧迫していた激動の時代、そのはざまに立たされた朝鮮が多くの困難に直面したのは歴史的事実だ。しかしこのような歴史的体験を絶対視することが本当に必要か疑問に感じる。結果的に行き過ぎた自己卑下や敵対心ばかりを呼び起こし、失敗から学ぶ機会を失いかねないからだ。また「皇帝の国」を名乗ってきた中国の歴史を振り返っても、「三田渡の恥辱」以上にひどい恥辱の歴史はいくらでもある。例えば4世紀に西晋の3代皇帝・懐帝が匈奴に首都の洛陽を包囲され、直後に処刑された「永嘉の乱」、あるいは1449年に明の正統帝がモンゴル軍の捕虜となった「土木の変」などはまさにそうだ。

 中国・宋の時代、1127年に起こった「靖康の変」も三田渡の恥辱以上の大事件だった。女真族が建てた金の軍隊に押された宋の徽宗は息子の欽宗に譲位して金の歓心を買おうとしたが、それでも破滅を防ぐことはできなかった。首都の開封は城門を開き、降伏した徽宗と欽宗は平民とされ、1万5000人以上の女官、画家、音楽家らと共に北の金に連行された。牛車に引かれて黒竜江省の北の奥地に連れられた欽宗と徽宗は金の太祖の前で礼を強要され、徽宗は昏徳公(仁徳がない)、欽宗は重昏侯(ばか)という屈辱的な別名で呼ばれた。徽宗と欽宗と共に連れられた数万人の捕虜は再び故郷に帰ることができないままこの世を去った。

 明清交代期のはざまで朝鮮は戦争すべきだったか、あるいは講和すべきだったかは今も論争が絶えない。朝鮮に新しい帝国・清の侵略を防ぐ力はなく、明と清のどちらかに付いて形勢を左右することもできなかった。光海君は双方の間で中立を守ったが、後に後金のヌルハチが力をつけたため、朝鮮の軍事力で形勢を左右することは一層できなくなった。後にホンタイジが1636年に清帝国を宣布し皇帝になると、20年前の光海君の時代とはさらに情勢が大きく変わってしまった。

 当時の一連の出来事の中で特に注目すべき点は何か。ソウル大学のハン・ミョンギ教授は歴史評説『丙子胡乱』(丙子の乱の韓国での呼び名)の中で、仁祖は自らの即位を後押しした功臣を重用したが、彼らは戦争への備えには無能で、また口では国防や庶民生活を重視したが、実際は真剣に取り組まなかった点などを指摘している。これについてハン教授は「政権の安保には力を入れたが、国の安保は軽視した」と説明する。仁祖は王位に就いた直後、明からの使臣に「(1619年に)明の後金討伐軍が後金に大敗したサルフの戦いの際、光海君は朝鮮軍に後金への降伏を指示したため、明の後金討伐が失敗に終わった」と指摘した。前政権の「積弊」を責め立てることで自分たちの正当性を強調し、明から認められようとしたのだ。

 与野党の政治家たちが映画『南漢山城』を見た際、それぞれの政治的立場から違った評価を下したとの話に記者はがっかりした。与党側は丙子の乱を招いた原因として「外交力不足」を上げ、北朝鮮の核問題にも外交的解決の必要性を強調した。これに対して野党側は「王の無能」が理由だったとして、現政権における安全保障政策の無策を批判した。一方で映画の中では講和派の崔鳴吉(チェ・ミョンギル)と主戦派の金尚憲(キム・サンホン)は考え方は違ったが、国を思う情熱だけは互いに理解し合う間柄として描かれていた。ところが今の政界では相手をひたすら「積弊」とレッテル貼りし、相手への批判を強めるばかりだ。三田渡の恥辱とそれによる「積弊の精算」という破局を目の当たりにしながら、何も学べない彼らの姿を見ると一層不安に感じてしまう。

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