▲李泰鎮教授は「1904年2月に日露戦争が始まった後、韓半島(朝鮮半島)は絶えず日本軍による戒厳状態に置かれた。軍事的な脅しの下で締結された国権侵奪条約は、当然ながら国際法上無効」と語った。/写真=李泰景(イ・テギョン)記者

 「四半世紀にわたって取り組んできた、日本による韓国併合の違法性に関する研究を仕上げることになって、すっきりした。朝鮮が無力だったので植民地になったという認識が一般的だった中、日本による韓国併合は世界史的にあまり例のない強制と欺瞞(ぎまん)によるものだったということを明らかにして、国際学界の共感を得たことにやりがいを感じる」

 20世紀初めの日本による朝鮮侵略の過程に見られる歴史的・国際法的問題点を実証的に研究し、これを日本・欧米の学界に伝えることに尽力してきた李泰鎮(イ・テジン)ソウル大学国史学科名誉教授が、これまでの研究成果をまとめた著書『日本の韓国併合強制研究:条約強制と抵抗の歴史』(知識産業社)を出版した。

 朝鮮王朝時代を主に研究してきた李泰鎮教授が大韓帝国に関心を持つようになったのは、1992年にソウル大学奎章閣に所蔵されていた大韓帝国の詔勅・勅令・法律などおよそ60点の中に、純宗皇帝の署名が偽造されたものを見つけてからだった。統監府の日本人官僚が書き込んだものだった。「『保護条約』(第2次日韓協約。乙巳〈いっし〉条約)など韓国の主権を奪った諸条約にも問題があるのではないか」と考えた李教授は、条約の原本を確認した。その結果、皇帝が条約を承認した批准書がなく、条約の名称も書かれていなかった。条約の韓国語本すら、日本側が作ったものであることが判明した。

 そのころ、ソウル大学のキム・ギソク教授が米国カリフォルニア大学で、高宗が米国人宣教師ホーマー・ホルバートに与えた信任状と修好7カ国の元首に送った親書を確認した。高宗は親書に「保護条約は日本が強制したものであって、自分は承認しなかった」と記していた。李教授は、自著の論文やほかの研究者の論文を集めて『日本の大韓帝国強占:〈保護条約〉から〈併合条約〉まで』(図書出版カチ、1995年)を出版した。

 その後、研究は二手に分かれて進んだ。一つは「日韓議定書」(1904年2月)、「第1次日韓協約」(04年8月)、「第2次日韓協約」(保護条約。05年11月)、「日韓新協約」(第3次日韓協約・丁未七条約。07年7月)、「併合条約」(10年8月)など、日本が朝鮮の国権を段階的に奪っていった諸条約の違法性を明らかにすることだった。李教授は「条約締結の過程は、全権大臣の任命や皇帝による批准の手続きを飛び越え、実務者間の『覚書』(メモランダム)を政府間の『協約』(アグリーメント)にすり替えるなど、欺瞞でつづり合わせてあった」と語った。

 もう一つは、条約締結が日本軍の軍事力に依存していた点を明らかにすることだった。95年の村山談話以降、日本側は関連資料の公開を進め、2001年にアジア歴史資料センターを設置したことが大いに役立った。特に、陸軍省が日露戦争当時の日本軍の資料をまとめて編さんした『陸軍政史』を入手したことが決定的だった。この資料集には韓国駐在軍司令官・長谷川好道の報告書が載っており、同報告書で長谷川は、保護条約締結当時、日本軍の騎兵連隊や砲兵大隊までも漢陽城内に投入して完全掌握し、朝鮮強占の「第一の功労者」は自分だと主張していた。また、これまでは併合の際に日本の官僚が中心的役割を果たしたといわれていたが、実際には陸軍省が主導していたことが明らかになった。

 朝鮮併合に消極的だった伊藤博文が、1909年6月に韓国統監を辞めて併合賛成に転じた過程も明らかになった。高宗が強制的に退位させられ、軍隊が解散し、義兵抗争が激化したことを受け、伊藤は1909年初めに純宗と共に韓国各地を回って民心をなだめる計画を立てた。しかし大邱-釜山-馬山を鉄道で回る南巡、平壌-義州-開城を訪れる西巡の際、行く先々で数万もの人々が集まると、純宗は人々に対して愛国と新文物の受容を訴えた。李教授は「君民が一つになった抵抗心を確認した伊藤は、侵略戦争の主導権を軍部に渡すことを決心した」と語った。

 李泰鎮教授の研究は、日本の月刊誌『世界』で紹介された。日本の学者との間で討論が繰り広げられ、韓米日の学者が参加する国際共同研究につながった。日本の韓国併合は違法だと宣言する韓日の知識人1144人の共同声明(2010年)、日本の過去史反省を求める韓日米欧の知識人の共同声明(15年)でも、李教授が主導的役割を果たした。李泰鎮教授は「韓日親善と東アジア平和共存は、日本の正確な歴史認識と真の反省の上で可能であって、日本政府はこのために努力する良心的知識人に耳を傾けなければならない」と語った。

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