大韓民国歴史博物館(ソウル・光化門)3階の企画展示室には、高さ1メートル30センチの「斥和碑」が立っている。1871年の辛未洋擾(ようじょう)=同年発生した米国艦隊による朝鮮攻撃=直後、興宣大院君が朝鮮各地に立てた石碑の模型だ。この斥和碑には「西洋の蛮族が侵犯しているのに戦わないのは、すなわち和親であり、和親を主張するのは売国である」(洋夷侵犯 非戦則和 主和売国)という文言が刻まれている。同じ3階には、辛未洋擾の当時、朝鮮軍の主力火砲だった「仏狼機砲」の実物も展示してある。16世紀に、ポルトガルなどから明を経由して伝えられた火砲だ。「仏狼機」とは、ヨーロッパ人の通称だった「フランク」を借音したもの。

 このように、大院君は鎖国政策を強硬に展開した。しかし1875年、日本が軍艦を派遣して江華島の永宗鎮を砲撃した「雲揚号事件」がきっかけとなり、朝鮮と日本は翌年「朝日修好条規」を締結した。いわゆる「江華島条約」だ。朝鮮が外国と締結した最初の近代的条約だが、朝鮮の沿岸測量の許容や領事裁判権の認定など、不平等な条項を含んでいるという批判も受けている。

 今年の開港140周年に合わせ、大韓民国歴史博物館(金容稙〈キム・ヨンジク〉館長)は今月6日から来年3月まで特別展「1876年開港、大陸から海洋へ」を開催する。開港前後の地図や文書などおよそ100点を集めたこの展示で目を引くのは、朝日修好条規の原本だ。ソウル大学奎章閣で所蔵している資料を、今回の展示のために借りてきた。

 当時全権大臣だったシン・ホンが条約締結の進行状況や所感を記録した『沁行日記』、条約締結に反対した儒生(儒学を学ぶ者)らの上訴なども展示されている。キム・ソンジュン学芸研究士は「開港は、近代的制度や文物を受け入れる韓国近代史の起点だが、国権喪失の不幸な歴史につながるきっかけにもなった。このような開港の二面的な姿を示そうと思った」と語った。グローバル時代を迎えたこんにちも、開放と鎖国、近代化という問題意識は依然として有効のようだ。

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