1970年代は、各家庭を回って月賦で全集を売り歩く商売の全盛期だった。余裕ができた中産層が、子どものために児童用の文学全集や偉人の伝記を気前よく購入した。赤い表紙で50巻からなる啓蒙社の「少年少女世界文学全集」や、15巻からなる「韓国伝記全集」「世界偉人全集」などは、子どもたちにとって羨望(せんぼう)の対象だった。全集が配達されると、図書館が家にやって来たかのようで、とても浮き浮きして本を広げた。しかし童話の本をある程度読んでしまうと、読書熱は冷めていった。

 春園・李光洙(イ・グァンス)と出会ったのは、そんなときだった。月賦で全集を売り歩く業者が、大人向けの本として勧めてきた最初のものが、当時ベストセラーだった10巻組みの三中堂李光洙全集だった。小学6年生にとって「李光洙全集」は手ごわかった。縦書きでみっしり詰め込まれた活字には飽き飽きした。それでも手当たり次第に読んでいった。『無情』『有情』『土』『愛』『麻衣太子』……。きちんとした背景知識もないまま読んだ李光洙の小説を、小学生が消化するのは無理だった。そうして李光洙からは遠ざかっていった。

 少し前に韓国文人協会が、春園と六堂・崔南善(チェ・ナムソン)を記念する文学賞を作ると発表したものの、計画を取り下げた。一部の団体から「親日派をたたえる文学賞をどうして作ることができるのか」と強く反発されたからだ。春園と六堂は、それぞれ朝鮮初の近代小説『無情』と新体詩『海より少年へ』を発表し、近代文学の先駆者に挙げられるが、「親日」の壁を越えることはできなかった。李光洙は、かつて文学評論家のキム・ヒョンが「いじればいじるほど悪くなる傷」に挙げたほどの、韓国文学のアキレス腱(けん)だ。

 植民地時代末期、春園が「内鮮一体」を掲げた総督府の施策を広報する先頭に立ち、日本留学生を対象に学徒兵への志願を促す演説を行ったのは、明らかな事実だ。しかし、こういう説明もある。金祐銓(キム・ウジョン)光復会元会長は、1943年11月に京都で李光洙の学徒兵勧誘演説を直接聞いた経験を持つ。金・元会長は2014年、本紙のインタビューで「『君たちが犠牲になってこそ、わが民族は差別を受けず、穏やかに暮らせる。朝鮮民族のために戦争へ行くべし』と説いた」と語り、李光洙の「親日」に民族のための「苦悶(くもん)」を見た-と振り返った。この演説を聞いて志願入隊したものの、後に脱走して光復軍に合流した独立運動家の言葉だけに、重みがある。学界の重鎮、金容駿(キム・ヨンジュン)高麗大学名誉教授も「春園の小説を読むことで、『皇国臣民』の世界から抜け出すことができた。春園を親日文人とののしる記事を見るたびに私は、彼を責めることはできないという思いを抱く」と語ったことがある。木を見て森を見ない、偏狭な歴史認識を懸念したのだ。

 「春園・李光洙」と聞いたら「親日派」を思い浮かべるこのごろの世代にとって、李光洙は「忘れられた作家」だ。文学研究者でもなければ、『無情』など李光洙の作品をひもとく人間もいない。韓国には、李光洙の文学と生きざまを完全に振り返ることができる文学館すら満足に存在しない。李光洙がどういうわけで親日の道へ入ることになったか、その過程をめぐる苦悶と省察もなしにののしるだけで、克日になるのだろうか。

 最近公開された映画『密偵』は、親日と独立運動の間で揺れ動く警察幹部を主人公(ソン・ガンホ)に据えた。総督府の警務部長が、義烈団に協力した疑いを掛けられていた主人公をあらためて懐柔するラストシーン。ソン・ガンホの揺れるまなざしは圧巻だった。韓国知識人社会の水準は、映画館を訪れた600万の観衆の目線よりも下のレベルなのだろうか。

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