コラム
【寄稿】大韓民国建国の動力は「抗日」と「反共」
大韓民国を建国した動力は何か。最近繰り広げられている「国家のアイデンティティー」論争の中心に、まさにこの問題への答えが存在している。こんにち韓国が享受している自由と繁栄は世界トップ10のレベルだという評価に対し、韓国人は全く拒否感を持たない。民主主義という政治的基準や資本主義という経済的基準はもちろん、福祉制度のような社会的基準、さらには科学技術および生活様式で代弁される文化的基準においても、韓国は世界の上位に属する。
では、こうした繁栄の基礎を、韓国はいつ築いたのか。言うまでもなく、大韓民国という国が出発してからだ。伝統的な朝鮮でもなく、日本が支配した植民地でもない。自由民主主義と市場経済を国家の基本的な運営原理として採択した大韓民国が、国会・憲法・政府を順につくり出した1948年がその出発だ。
では、これをつくり出した動力は何であったか。二つの力の結合により、韓国人は自由民主主義と市場経済を基本とする大韓民国を建国することができた。一つは、日本帝国主義と戦う「抗日」の力。もう一つは、北朝鮮の共産主義と戦う「反共」の力だ。この二つのうち、片方だけで大韓民国を建国することはできなかった。抗日だけでは、国をつくることはできたとしても、その国が自由民主主義と市場経済を基本にする国になるとは保証できない状況だった。北朝鮮がこの例に該当する。
少し歴史を振り返ってみよう。抗日の結果として1945年に解放され、韓半島(朝鮮半島)には新たな敵が登場した。ほかでもない北朝鮮の共産主義政権、そしてこの政権を背後から操るスターリンと毛沢東だ。しかし当時、南側を統治していた米軍政は、こうした事情を明確に認識できなかった。ソ連が占領した北側で共産全体主義国家が徐々につくられつつある過程を目撃しながらも、米軍政は信託統治を推進した。
また、信託統治をめぐって左派の賛成と右派の反対が激しくぶつかると、米軍政は再び左右合作を推進した。朴憲永(パク・ホンヨン)のような脱法的左派、そして李承晩(イ・スンマン)のような反共右派指導者を排除する一方、米軍政は相対的に穏健な左派の金奎植(キム・ギュシク)と呂運亨(ノ・ウンヒョン)を軍政のパートナーに据えた。李承晩は強く反発した。
李承晩は、東欧での左右合作が結局ソ連の衛星国建設のための時間稼ぎだった、という事実を見抜いていた。そこで李承晩は、46年6月に井邑で「南だけの単独政府であってもつくるべき」と主張した。北朝鮮が46年3月に土地改革を行うなど、既に事実上の共産国家を建設していたからだ。
東欧の失敗を経験して、幸いなことに米国も気が付いた。第2次大戦後、世界のあちこちで膨張する共産主義に直面し、米国大統領トルーマンは47年3月にソ連との冷戦を公式に宣言した。この宣言に伴って左右合作は動力を失い、李承晩の反共路線がついに力を持ち始めた。
その後、国連は47年11月、韓半島において人口比例に基づく総選挙を行うと決議したが、北朝鮮はこれを拒否した。ただ単に拒否しただけではなかった。48年5月10日に予定された選挙を妨害するため、北朝鮮は南労党や左翼系列を総動員して殺人、放火、スト、暴動を起こした。済州島の4・3事件も、まさにこうした流れの中から始まった事件だ。このような困難を克服して大韓民国は建国された。故に反共は抗日と同様、韓国をつくり上げた動力なのだ。
大韓民国を建国した力から反共を取り除き、抗日だけを掲げると、どういう結果になるか。知っての通り、金元鳳(キム・ウォンボン)は解放前に共産主義系の抗日武装闘争を率い、臨時政府左派の中心的人物として活動した。解放後、南に帰国した金元鳳は、北に渡って労働相になった。そのため、金元鳳は抗日運動をやったものの、韓国の建国には何の役にも立たなかった。逆に、韓国をつぶすため6・25戦争(朝鮮戦争)を起こした金日成(キム・イルソン)の支援者になっただけだ。反共抜きの抗日だけでは大韓民国の建国を決して説明できない理由が、ここにある。
金九(キム・グ)は解放前、韓民族独立のために最も卓越した抗日運動を展開した人物だ。臨時政府右派の中心人物だった金九は、中国で外交・軍事・義烈などあらゆる分野の抗日運動を指揮する最高指導者だった。帰国後も、47年までは李承晩と共に反信託統治・反共闘争を展開した。
しかし金九は48年1月以降、大韓民国建国の最終段階で共産勢力と南北交渉を展開し、5・10選挙を否定した。そのため金九は、韓国独立には大きく寄与したにもかかわらず、韓国建国の役には立たなかったという批判の対象になっている。